社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘

愛知県名古屋市守山区にある『社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘』のブログ

#50(最終回)「いつの日も花は咲く」

 

ドラマは、12月15日(日)放送の50話をもって終了。

それに伴い、一年間書き続けたこの連載も、本日で完結いたします。

始めた当初から、おそらく、あまり多くの人には読んでいただけないだろう

ことを覚悟しながらの1年間ではありました。

何度も挫折しそうになりながら、なんとか続けられたのは、

会津人の不屈の魂に少しでも近づきたいという一念によるものであった

かもしれません。

まあ、傍から見れば、ただの自己満足、紙面の私物化ですが・・・(^.^)

 

 

最終エピソードは、明治27年(1894)、誕生まもない大日本帝国と

「東洋の眠れる獅子」といわれた大国・清とが朝鮮半島の覇権をめぐって争った、

日清戦争(中国では甲午戦争と呼称)からスタート。

数年前に三か年をかけて放送されたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の

日清戦争時の戦闘シーンをライブラリー映像として使用していました。

何度見ても贅沢な映像ですねえ。また見返したくなってきました(^.^)

そういえば、大日本帝国憲法発布のシーンにも同作の映像が流用されていました。

思わず大和田常務じゃなかった、(^.^)、香川照之(正岡子規)が映っていないか

探しちゃいましたよ(^.^)

 

そんな中で、篤志看護婦を率い、広島の陸軍予備病院にて看護に当たる八重たちの

奮闘ぶりが描かれます。担ぎ込まれた負傷兵たちの多くは、戦傷や凍傷で手足を失い、

赤痢やコレラなどの悪性の伝染病に侵され、特に陸軍では、脚気患者に悩まされており、

当時の戦陣医学のレヴェルを考えれば、現場の状況は惨憺たる有様だったでしょう。

ちなみに、この戦争のとき、大本営は東京から広島城内に移され、陸海軍を統率する

大元帥である明治天皇自らが臨御して、前線の指揮を執られました。

なぜ広島だったかといえば、広島湾にある宇品港が大陸への兵力動員の玄関口と

なったからです。戦時に天皇自らが東京を離れたのはこのときだけのこと。

誕生まもない明治国家にとって、大国・清との戦いは、それだけ、薄氷を踏む思いの

戦争だったといえるのではないでしょうか。

広島というまちは、明治から終戦まで、陸軍作戦の策源地となり、「軍都」として

栄え続けました。このことがのちの原爆投下の悲劇にもつながるのですが、

それはまた別の話・・・

 

このときの働きの功により、八重は皇族を除き、女性として初めて叙勲(勲七等宝冠章)

を受けるという栄誉を得ます。 会津出身の八重が叙勲されたことは、会津の人々を

どれだけ勇気づけたことでしょうか。

 

さて、今回は、最終回に登場した印象深い登場人物たちを点描していきながら、

本カテゴリーを締めくくりたいと思います。

 

まず、八重叙勲の報に喜ぶ友人の時尾や二葉ら会津女性たちを描くシーンに、

明治後、藤田五郎と名を変えた元新選組副長助勤・三番隊組頭の斎藤一が

久しぶりに登場!!明治後の斎藤の活躍が描かれる映像作品は、ほかには

『るろうに剣心』くらいのものでしょう(^.^)

彼は新選組随一といわれた撃剣の腕を生かして、かつての古巣、

警視庁の道場で竹刀をふるい、現役警官たちを相手に剣術指南をしています。

まさに鬼神のごとき強さで、カッコイイ(^O^)/しかも、彼に稽古をつけてもらっている

警官の中には彼の素性を知っている人物もいたりして、そこもなんだかとても

らしくて、良かった。斎藤らしい最終場面で、新選組ファンとしては感動です(^.^)

斎藤は西南戦争に従軍後、しばらくしてから警察を辞めて、東京師範学校(現在の

筑波大学)、東京女子師範学校(現在のお茶の水大学)に勤務しています。

実はこれ、山川浩の口利きではなかったかといわれています。

山川は明治18年、現役の陸軍軍人ながら、前記2校の校長を務めていますし、

東京女子師範校長を務めた高嶺秀夫も会津人でしたから、

その影響力なくしては考えられませんね。

御家人の家に生まれたとされる斎藤は、新選組隊士として会津藩御預かりとなり、

その恩義に酬いるため、会津戦争の際に新選組を離脱して会津藩に残ったとされる

のが一般的ですが、実はもともと会津にゆかりがある人間で、会津藩から新選組へ

送られた密偵だったのではないかという説もあり、名前を頻繁に変えているため(本名が

斎藤一かどうかすら不明)、その実像はよくわかっていません。

そのわりに、会津家中でも決して身分が低くない女性(高木時尾)との結婚、元家老である

山川浩との交友など、どうにも謎が多い。

そういうミステリアスな部分があるからこそ、多くの新選組隊士の中でも、近藤勇、土方歳三、

沖田総司と並んで、今日も人気を集める人物なのでしょう。

彼を描いた作品では、浅田次郎氏の小説『一刀斎夢録』がおススメ。

名作『壬生義士伝』、異色作『輪違屋糸里』につぐ浅田氏の新選組三部作の完結編。

最近文庫になりましたので、興味のある方は、ぜひお読みになってください。

 

  「幕末を生き延び西南戦争に赴いた斎藤一と

         土方歳三の遺影を託された少年の慟哭の物語」

 

というコピーに偽りはなく、ホント、私は涙なくして読めませんでした。

 

山川浩(大蔵)は、『京都守護職始末』完成を前に、病に倒れ、他界します。

斗南藩消滅後、多くの旧会津藩士たちの生活が立ち行くように、

あれこれと援助を行い、常に自分自身は赤貧洗うがごとく。

戊辰戦争時に発揮された軍才を評価されて、土佐の谷干城に誘われて

明治陸軍に入りますが、薩長藩閥が跋扈する中で、彼の才幹を

発揮する場は限られ、佐賀の乱では左腕の自由を失うような戦傷を負い、

西南戦争では名指揮ぶりを発揮しながら、十分は論功行賞を受けることができず、

それでも、後に続く会津人のため、彼は必死に与えられた務めを果たそうとします。

また、旧主である松平容保とその一家に対しても、執事のように仕え続け、

藩と主の名誉回復のために、弟健次郎とともに奮闘しました。

先に書きましたが、浩は現役の軍人として教育界へ進み、

前出の諸学校で校長を務めました。弟の健次郎、姉の二葉とともに

教育界に名をとどめたことは、会津藩における教育水準の高さの表れかも

しれませんし、教育界にしか、旧会津藩関係者が活躍する場が無かったとも

いえるのかもしれません。

彼は、自分自身で成し遂げることがかなわなかった『京都守護職始末』の執筆を

弟の健次郎に託し、明治31年2月4日に病没。死の数日前、男爵位に叙せられています。

知将・山川浩。最終階級は陸軍少将。享年52歳。

最後までカッコイイ人物でした。

 

一方、兄の遺志を受け継いだ健次郎は、東京、九州、京都の各帝国大学で

総長を務め、明治大正期の教育界に巨大な足跡を残します。会津戦争の際、

白虎隊士であった時期があったことから、「白虎隊総長」という異名で呼ばれました。

彼は兄から託された『京都守護職始末』を完成させますが、まだ世に出すのは早いと

判断し、明治44年にようやく発刊。また、のちには自身が編纂した『會津戊辰戦史』を

昭和7年に刊行しており、旧会津藩の名誉回復に尽力しました。

また、会津戦争から60年目の干支が同じ戊辰に当たる昭和3年の秩父宮雍仁親王と

松平恒雄(容保六男)の長女勢津子妃との婚姻に際して、

奔走したのが健次郎だったといわれています。

このとき、会津の人々は、ようやく会津復権の悲願が成ったと大いに喜びました。

山川健次郎博士は、陸軍大将となった柴五郎とならび、会津出身者を代表する名士

だったといっても過言ではありません。

勢津子妃婚姻の翌年、京都黒谷金戒光明寺内にある塔頭・西雲院で営まれた

法会において撮影された集合写真最前列には、八重と並んで、松平恒雄、

山川健次郎、柴五郎の姿がみえます。(同志社女子大HPで見られます)

健次郎は、このしばらくのち、昭和6年に76年の生涯を閉じます。

兄と同様、旧藩の名誉を取り戻すため、そして、日新館で学窓を同じくし、戦場で散った

かつての仲間たちに報いるために、懸命に駆け抜けた生涯でした。

 

 

従軍記者らを率いて八重たちが働く予備病院にやってくる徳富蘇峰は、

かつて平民主義を唱えていたころとは、思想的に大きく変わっています。

彼は勇ましい戦場体験を記事にすることで国民の士気を鼓舞しようとします。

蘇峰の思想的変容は、以前にも触れました。この従軍経験と、戦後の三国

干渉に対する憤りが、彼を国権主義者へと本格的に変貌させていくことになります。

そうした兄を冷ややかに見つめる弟の蘆花。個人的には、ドラマ上、この兄弟を描く

比重が必要以上に大きいと感じていたのですが、新島家・山本家にゆかりのある

人物の中で、両極端の道をゆくことになる兄弟を、明治を生きる若者の二つの典型

として、新時代とそののちの時代を象徴させる意図があったと解釈することができる

かもしれません。

マスコミがいたずらにナショナリズムを煽り、言論の力で国民をミスリードしていく

という構図は、古今東西、よく見られることです。のちの太平洋戦争も同様。

明治もこのころは、未だ維新の頃の蛮性が色濃く残っており、触れづらいことですが、

今日の目から見れば明らかな非人道的行為が戦場のあちこちで見られたといいます。

このあたりについては、一ノ瀬俊也氏による『旅順と南京 日中五十年戦争の起源』

(文春新書)に詳しいので、興味のある方は読んでみください。

 

徳富らをはじめ、戦勝に沸く国民の多くが憤った三国干渉。

日清戦争後、日本全権の伊藤博文と清国全権の李鴻章の間で会談・調印された

下関条約により日本が領有することになった遼東半島をめぐって、

ロシア・ドイツ・フランスの三国が清国への返還を日本に勧告。日本は苦渋の末、

返還を受諾。世論は政府の弱腰を非難、やがて、この雪辱を果たそうと「臥薪嘗胆」

が国民的なスローガンとなり、この外交的敗北は、すべては軍事的劣勢が原因として、

国家の身の丈に合わない陸海軍の増強を図っていき、10年後のロシアとの直接

対決へとつながっていきます。その日露戦争については、ぜひ『坂の上の雲』を。

『八重』のチーフディレクターであった加藤拓氏による旅順戦は、日本テレビ史上

に残る傑作と思います。

 

今回、意外であったのが、最後の将軍・徳川慶喜の再登場。

ドラマでは終始松平容保ら会津藩一党を翻弄する悪役として描かれた徳川慶喜。

彼には彼の理屈があり、行動原理があったでしょうが、周囲の人々には理解しづらい

人物でした。そういう理解不能の人物を、小泉孝太郎が最後まで好演しました。

最後の最後まで、慶喜らしい慶喜であったと思います。

自分は、会津のように真に信頼に足る家臣を得ることが出来なかったという意味の

彼の言葉が印象的です。たしかに、そうした一面はあったでしょう。慶喜には、自分の

手足となって働く家臣団も戦力も皆無でしたから。

慶喜は、江戸城無血開城後、郷里の水戸にて蟄居。そののち、

駿府(現在の静岡市)に移り住み、やがて東京へ戻りました。その間、政治には一切

かかわりを持たず、写真や投網、絵画などの趣味に生き、駿府では舶来の自転車に

乗ったりしています。

明治31年、勝海舟の周旋により、明治天皇に拝謁し、復権を果たします。

4年後には公爵位をも受けています。彼が世を去るのは、大正2年11月のこと。享年74。

結果的に自分が捨て殺しにした会津の人々について、本当はどのような思いをもっていた

のでしょうか。

 

勝海舟は慶喜への個人的な感情を押し殺し、その復権を後押しします。何度か書きますが

家臣と言うのは大変な仕事です。

勝は明治後、新政府に請われて、参議、海軍卿などを歴任、伯爵位を得ていました。

江戸を戦火から救い、太平の道を開いたとされる一方で徳川を売ったと指弾されるなど

毀誉褒貶相半ばする人物ですが、大変複眼的に物事を見ることが出来る、

とても頭のいい人物だったのではないかと思います。ある女性脳科学者は、勝を評して、

「メタ認知能力に秀でていたひと」としています。なるほど。

たぶん、自分が同時代から後世にかけてどう思われるか、とてもよくわかっていたのだろうと

いう気がしますね。慶應義塾の福沢諭吉が有名な『痩せ我慢の説』を発表し、勝や、勝と同様に

新政府に出仕して大臣を歴任していた榎本武揚を批判したとき、勝は思うところはあった

でしょうが、「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張」といい、表立っての反論は

しませんでした。

慶喜との関係は複雑で、旧幕時代は決して良好な主従関係ではありませんでしたが、

海軍に進んでいた跡取の小鹿(ころく)が夭折した際には、勝に請われて、慶喜は自分の十男

である精(くわし)を勝家の養子にしています。勝にとっては、これで徳川の家臣としては、

十分元を取れたのでしょうか?この二人にしか分からない歴史の機微がありそうです。

幕末という複雑怪奇な混迷の時代を駆け抜けた勝は、慶喜復権を果たした翌年の明治32年

1月、赤坂氷川の私邸で脳溢血により死去。75年にわたる波乱の人生でした。

ちなみに、勝を演じたのは個性派俳優の生瀬勝久。関西で有名な劇団であった

「そとばこまち」で座長を務めた彼は、実は同志社出身。これが今回の配役の理由??

 

 

八重が久しぶりに戻った会津で偶然に会ったのが、元会津藩筆頭家老の西郷頼母。

ココはフィクションですが、二人の再会が八重と会津を象徴する桜の巨木が舞台となった

ことは、ドラマの締めくくりとしてはアリでしょう。

ドラマの頼母は、降伏直前の箱館五稜郭にて榎本武揚と語り合い、新しい時代を見るために

生き抜こうと決意する場面を最後に、しばらく画面から遠ざかっていました。

五稜郭陥落後、頼母は捕虜となり、館林藩(群馬県)お預かりとなり、やがて許されます。

このころから、彼は保科姓を名乗ったそうです。西郷家は藩祖と同じ保科家の分家で、

もとは保科の姓を名乗っていたからでしょう。一家全滅という悲惨な体験をした彼にとって、

生まれ変わろうとする意味合いもあったのでしょうか。

伊豆で私塾の塾長をつとめたのち、明治8年には都都古別(つつこわけ)神社宮司となります。

明治10年の西南戦争に際し、幕末期から交流があったとされる薩摩の西郷隆盛との関係を

疑われて神社を追われ、明治12年には、ともに鶴ヶ城を脱出した嫡男吉十郎が病没、

甥の志田四郎を養子に迎えます。彼はのちに上京し、嘉納治五郎が設立した講道館にて、

四天王と呼ばれる柔道家に大成し、富田常雄の小説『姿三四郎』の主人公のモデルとなった

西郷四郎その人です。

明治13年、旧主の松平容保が日光東照宮宮司となった際、頼母は禰宜となり、かつての

主従関係のように容保を支えます。再会した二人は何を語ったのでしょうか。

以前にも書きましたが、頼母は、晩年に書いた手記「栖雲記」に、この当時のことを

「主従の間はますます親睦を加ひしのみ」と綴っています。

話はかわりますが、東照大権現・徳川家康の廟所として徳川家から手厚い保護を受けていた

日光東照宮は、明治後、後ろ盾を失い、社殿が荒廃した時期があったといいます。

それを見かねたのが容保で、保全の為の奉賛活動を始めて、山内の整備に努めたのです。

最後まで徳川家に尽くした容保は、実に立派です。

現在、世界遺産となった日光東照宮の公式HPには、今日の日光東照宮があるのは、

実は容保と頼母、旧会津主従の尽力があってのことと記されています。

私は、できれば、ドラマ中に、このあたりの挿話を取り上げてもらい、容保と頼母の再会

場面を作り、そこから逆算した両者の関係性を描いて欲しかったのですが、

そこは無いものねだりでしょうかね。せっかく二人とも明治後まで登場したのですから、

そこはとっても残念。

悲劇の家老・西郷頼母は、晩年、会津若松の長屋で暮らし、74歳で逝去。

新政府軍が鶴ヶ城下に雪崩れ込んだあの日、邸で壮烈な自刃を遂げた妻と同じ墓に

眠っています。

 

新島八重の人生は、このあともつづきます。

彼女は、篤志看護婦としての活動を続けて、明治37年に勃発した

日露戦争においても大阪の陸軍予備病院にて看護業務についてます。

日常生活においては、裏千家に入門して、茶道(ちゃどう)にいそしみ、

新島宗竹(そうちく)の茶名を与えられ、裏千家流の普及に努めたとされています。

これも、女性の自活の為の手段としての茶道だったのだと思えば、彼女の行動は

終始一貫しています。古い教養と近代的な精神と思想が、八重の根底に常に

同居し、和魂洋才で、男女の枠をも超えた人物だったということがいえますね。

襄や山本家の人々の死後、子どもも居ない八重は、一見すれば

さびしい晩年だったように思えるのですが、旧会津や同志社の人々との交流や、

看護学、茶道などを通して知り合った人々とのかかわりが多くあり、昭和7年の葬儀の

際には、4000人もの人々が参列したといいますから、決して孤独な人ではなかった

でしょう。老人の孤独死が話題になる昨今ですが、八重の晩年こそドラマにすると、

またちがった発見ができるように思うのですが、どうでしょうか。

かくしゃくとした、コワーイ老婆の八重さんも見てみたいものです

 

 

 

今回は、文章を書くために、単に漫然とドラマを見るだけではなく、史実や最新の研究成果を

調べ直すことを自らに課しました。その過程ででわかったのは、大河ドラマというのは、

実に丹念に考証されて作られているということでした。特に今回は、史料等が他の時代

より豊富な近代に近い時代ですから、当たらなければならない文献は膨大。

むろん、歴史再現ドラマというわけではなく、あくまで史実を基にしたフィクションですから、

描かれているのは「史実そのまま」ではありません。ドラマとして再構成、換骨奪胎されている

部分も多々あります。本作は実に多岐にわたって考証や歴史的事実の噛み砕きが行われて

おり、脚本家の山本むつみ氏をはじめとする文芸スタッフの皆さんの労苦は相当のものであった

と想像されます。山本さんは福島で講演されたおり、資料の山で自室の床が見えない状態であった

と話されており、自分で年表をつくり、歴史的事実の流れと人物たちの動きを把握しながらの

執筆だったといいます。本当にお疲れ様でした。

映像面でいえば、NHK公式HPのメイキングを見る限り、日進月歩のVFXの力が

発揮された場面が数多く、撮りきり(合成や加工が一切ない映像のこと)のほうがむしろ

少ないのではと思われるほど、随所に映像的加工が加えられており、幕末から明治にかけての

時代背景を見事に再現した映像の数々であったと思います。これは、NHKが「アポロ計画的」と

たとえた『坂の上の雲』プロジェクトによって得られたノウハウの成果でしょう。

こうした映像的革新は、今後の大河ドラマの一つの試金石となったことはまちがい

ありません。

音楽もすばらしかった。”教授”坂本龍一氏によるテーマ曲をはじめ、中島ノブユキ氏

が手がけた劇中音楽も名曲が多く、印象深いものがありました。

視聴率的には、前年の『平清盛』ほどではないにしろ、かなりの苦戦を強いられ、

マスコミにたたかれたことは事実。しかし、最後まで初志を貫き続けたスタッフたちや

キャストのみなさんの努力は実を結んだと私は思います。

何よりも、原発事故による風評被害によって壊滅的打撃を受けた会津地方の観光が

見事に復活し、多くの観光客が押し寄せています。

そして、会津の幕末から明治にかけての歴史とさまざまな魅力ある群像が一年を通して

描かれたことは、今後を考えれば、地元にとってきわめて貴重な財産となったはずです。

 

そんなわけで、一年を通して連載してきた当コーナーもおしまい。

毎週書くことが大変で、更新が遅れ気味であったり、2話分同時に書いたりして

ごまかしたこともありましたが、何とか無事に終えることが出来ました。

この一連の駄文によって、幕末・明治という、多くの人々の運命を翻弄した激動の時代の

息吹を、少しでも感じていただけたら幸いです・・・

 

一年間、どうもありがとうございました。

 

 

                                       <了>

 


 

さて、来年1月5日からは、『軍師官兵衛』がスタート。

稀代の軍師とされ、美濃出身の竹中半兵衛と並んで秀吉を支えた

主人公の黒田官兵衛(孝高・如水)は、播磨(現在の兵庫県)出身ですが、

信長、秀吉、家康が重要な人物として登場することから、

この地方にゆかりの事件や場所がたくさん登場します。

今回は、単なる一視聴者として楽しみたいと思っております。

本当は大好きな司馬遼太郎さんの『播磨灘物語』を原作に作って欲しかった

ところですけど、歴女ならぬ歴男のV6岡田准一による官兵衛には期待しています!

そんなわけで、ヨンマルパパは、来年は、戦国モード。『八重』の連載に忙しくて

なかなか更新できなかった「史跡をゆく・小牧長久手合戦編」に専念します(^.^)

小幡城などの地元の史跡を紹介していきますので、お楽しみに!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

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福・島・応・援~『八重の桜』#50・最終回

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14
2013-12

#49「再び戦を学ばず」

八重の夫・新島襄が病死し、ドラマはクライマックスに向けて

さまざまな整理を始めました。

本来のテーマである「幕末・明治期の会津人の生き様を描く」ことに

ドラマの主眼が戻ってきた感じがして、私個人としてはとても

うれしく思っています。

そういえば、再来年の大河ドラマは長州が舞台となることが先週

発表されました。主人公は、吉田松陰の妹で久坂玄瑞の妻となった文(ふみ)。

井上真央が演じます。井上真央といえば、『花より男子』の印象が強いの

ですが、いっそ、兄の寅次郎松陰役は、『八重の桜』と同様、小栗旬が演じたら

良いのにと思います(F4つながりで(^.^) )。

幕末の長州藩が大河で描かれるのは、私が小学生のときに放送された『花神(かしん)』

以来のこと。主人公は中村梅之助演じる大村益次郎で、松陰は篠田三郎、高杉晋作は

中村雅俊が演じ、総集編DVDで今も見ることが出来ます。

本放送時は散見した程度でしたが、後年見た総集編が抜群に面白く、司馬遼太郎さんの

原作も好きだったので、とても好きな作品です。

どちらかといえば、私は幕府寄りなんですが、八重と同様、女性の視点から長州藩の志士たち

(幕府からすれば“テロリスト”ですが・・・)がどのように描かれるか、楽しみです。

  

 

さて、襄の死によって立ち直れないほどの落胆振りを

見せていた八重でしたが、襄の死後に同志社の臨時総長を

務めていた兄の覚馬から、東京の日本赤十字社で結成される

ことになった篤志看護婦人会に参加し、最新の看護学を学んで来い

と命ぜられます。八重は襄が寂しがるといって上京を渋りますが、

覚馬に一喝されます。

「新島襄の妻はこんなにも意気地なしだったのか」と。

赤十字の心髄は、戦場にて敵味方の区別無く、負傷者に手を差し伸べること。

敵を憎まず、苦しむもの、悲しむものに寄り添い、慈しみの光で世を照らす・・・

これこそ襄の作ろうとした世界だと覚馬は八重に語りかけるのです。

こうして、東京の大山捨松らとともに看護学を本格的に学んだ八重は、

京都で発足した京都赤十字社にて篤志看護婦人会を手伝います。

つねに前を向いて立ち上がり続ける八重の姿こそ、ドラマが描きたい

会津人の魂なのでしょう。

 

そして、ドラマでは病身をおして『京都守護職始末』を執筆する

山川浩と、その兄を支える健次郎の様子が描かれます。

同書は、今日も東洋文庫から出版されており、会津研究の基礎文献ですが、

これは山川兄弟たちの、旧藩と旧主(松平容保)の汚名を雪ぎたいという

執念が結実したものといえます。

旧会津藩士たちの戦後の着地点として、このエピソードを据えた

スタッフの視点はさすがだなと思います。

ドラマでは、八重の前夫・川崎尚之助が「会津戦記」という未完の手記を

残しており、それを引き継ぐ形で山川兄弟が前掲書を完成させたという

描かれ方をしていますが、これはフィクションです。

ただ、山川兄弟が無名の多くの会津人たちの無念を負ってあの著作を

完成させたというのは真実でしょうから、これはまあ、許容できる創作

でしょう。

幕末期には少年であった健次郎は、覚馬に当時の状況を聞くべく

京都の山本家を訪ねます。そこで覚馬が語ったことばは健次郎が

おおよそ許容できる内容でありませんでした。

 

「勤皇の志は、薩長も持っていた。会津は、戦をせず、国を滅ぼさない

道があったのではないか」

「『大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし』、徳川への忠誠を定めた

藩祖の家訓に会津藩は縛られてしまったのだ」

この思いもよらぬ覚馬のことばに、若い健次郎は反撥します。

 

「死んだものたちを思ったら、会津が間違っていたとはいえない!」

 

実際に、覚馬が健次郎にこのようなことを話したかどうか。

創作だと思いますが、四半世紀という年月が去ったあとに振り返ってみれば、

歴史を冷静に見ることができるもので、当事者として渦中にいた当時よりも、

客観的にそのときの事象を捉えることができるかもしれません。

しかも覚馬は、その後もずっと京都に居て、新政府高官とも交流がありましたから、

さまざまな事実をあとから聞かされて、他の会津人とは異なる歴史観を

持つに至ったかもしれないのです。

このブログにおいても、不完全ながら、当時の状況を多角的に説明し、

会津の瑕疵についても書いてきましたし、ドラマでも描かれていました。

再来年の大河で長州が描かれた際にもそうあってほしいですが、

一方を善、対立する側を悪と決め付けるような、単純な二元論では

歴史はわからないものです。

会津の人々と歴史に敬意を払いながら、一方でこうした視点を

入れていく今回のドラマの構造は、短時間のスペシャルドラマでは

決して描ききれない深みを生むのです。

 

健次郎の覚馬に対する反駁は、今日も、先の大戦をめぐる言論の中でも

出てきます。つまり、多くの戦死者、戦争に巻き込まれて死んだ民間人の死を悼む一方で、

戦争目的が間違っていたと口にすれば、彼らの死が無駄死にとなり、死者を

冒涜することだという議論です。

私は、戦争の犠牲者を弔う気持ちと、戦争について総括することは別の問題だと

思うのですが、そのあたりをごちゃ混ぜにする人は結構多い。というか、

自分の歴史観・イデオロギーの為、あえて混同させている、詭弁を弄している

と思うのです。そうした人々を、私は戦争犠牲者の死を人質にしている

と考えます。

私は祖父が戦死しており、祖母の弟2名も戦死・戦病死していますが、

だからこそ、先の戦争について謙虚に反省し、なぜ日本があのような

無謀な戦争を起こしたのかをしっかり考える必要があると考えています。

それこそが、無数の死に報いる唯一の手段なのではないかと・・・。

会津についても同じです。かれらは懸命に戦い、多くの尊い血が流された。

そのことはとても立派です。しかし、京都守護職時代から会津戦争にかけての、

藩の判断と行動が本当に正しかったかどうかは別の問題だと思うのです。

以前引用した水谷憲二氏の『「朝敵」から見た戊辰戦争』(洋泉社歴史新書)

はこのようなことばで結ばれています。

 

 その後の会津戦争の顛末は知ってのとおりであり、会津藩は幕末からの

 意地や信念を貫き通すことはできた。しかし、この敗北により会津藩士が

 背負うことになった代償はあまりにも大きくなってしまった。(同書223頁)

 

 

覚馬は当時発布された教育勅語にきな臭い国家の意図を感じます。

武人として生き、そして政治家、教育者と変遷してきた覚馬の知見は、

常に時代の先を見通します。

そして、臨時総長として迎えた13回目の卒業式の席上、かれは

聖書の一句を引用して送辞にかえます。

 

 「その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、

 国は国に向かいて剣を上げず。二度と再び、戦うことを学ばない」

 

新約聖書の中の「イザヤ2章4節」の引用です。これはドラマの創作らしいのですが、

ドラマの台詞の中にもあったように、「身をもって戦いを知る」武人で、西洋砲術の大家だった

彼が発してこそ、説得力のあることばといえるかもしれません。

 

覚馬は、こののち、病を得て、明治25年12月、母と妹に看取られて

64年の生涯を閉じます。

 

そして、覚馬が命を賭して仕えつづけた旧主・松平容保も死の床にありました。

彼は山川兄弟の訪問を受け、病床で、かつて孝明天皇から授けられた御宸翰と

御製を見せました。かれはそれを竹筒に入れて常に肌身離さずに身につけていました。

司馬遼太郎さんの『王城の護衛者』には、

 

 長さ二十糎(センチ)ばかりの細い竹筒であった。この竹筒の両端に

 ひもをつけ、首から胸に垂らし、その上から衣服をつけていた。

 就寝のときもはずさず、ただ入浴のときだけははずした。

 たれも、その竹筒のなかになにが入っているかを知らず、容保自身も

 それを話したこともなかった。

 

同作には、容保の死後、その通夜に際して、その竹筒の中身をあらためると

中から孝明天皇からの御宸翰と御製が出てきたと書かれています。

おそらく、ドラマのように山川兄弟に披瀝したことはなかったでしょう。

こののち、御宸翰と御製の存在は、新政府高官に知られることとなり、

その内容が世に出回れば維新の評価が変わってしまうことを心配した

長州の山縣有朋はそれを買い取ろうと松平家に働きかけたそうですが、

松平家はそれを断り、銀行の貸金庫に保管したそうです。

 

  竹筒一個

  書類二通

 という品目で、いまも松平容保の怨念は東京銀行の金庫にねむっている。

 

これが同作のラストです。

 

それはともかく、容保は、犠牲となった家臣たちの冥福を祈り続ける後半生を送り、

明治26年12月に薨去。

覚馬と容保の死は、会津人たちにとって、一つの時代の終焉を告げるものだったかも

しれません。

 

さて、ドラマでは描かれなかった挿話を一つ。

実は、会津戦争終結後の明治2年に誕生した容保の実子である容大(かたはる・

初代斗南藩藩主)は、一時期、京都の同志社で学んでいた時期がありました。

父や旧家臣が手を焼く問題児だった彼は学習院を退学させられ、

厳しいキリスト教系の学校で学んではという覚馬の助言から、京都の同志社へ

入学させられました。その当時の彼が映った集合写真があります。

中央が山本覚馬、後列中央には、新島襄・八重夫妻が映り、八重の右隣に、

腕を組み、斜め前方を見るもみ上げの長い面長の青年が映っていますが、

これが松平容大そのひとです。

同志社における生活は、さほど長いものではありませんでしたが、ここでも彼は

数々の非行を繰り返したそうです。困った若様ですねえ。

彼は幕末期の様子を覚馬らから聞かされたのでしょうか。父たちの苦難を

聞き、多少なりとも、心を入れ替えたのでしょうか。

このあたりをドラマでも描いてくれると、同志社のエピソードが

会津と絡んで、もう少しドラマとしての一貫性がでたと思うのですけど・・・

藩が消滅しても、旧藩主と家臣の関係性は封建時代のまま残りました。

出来の悪い若様の教育も旧家臣たちの務めだったのでしょう。

家臣というのは、つくづく、つらいものですねェ。

 

 

次回「いつの日も花は咲く」につづきます。

明日、最終回です!!

 

 


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福・島・応・援~『八重の桜』#49

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#47「残された時間」 #48「グッバイ、また会わん」


スケジュールの関係で、今回も2話合併でお送りします。

本放送では、すでに来週の日曜日の最終回を迎えますが、

こちらの更新は相変わらず滞りがちです。

ここのところ、休日は日曜大工に追われて、PCに向かう余裕が皆無、

そのうえ、思ってもみなかった災難にも見舞われ、ヘロヘロです・・・

いかんなあ(*^_^*)

 

さて、今回は新島襄の死が描かれている関係もあって、

二話分まとめてご紹介しました。まあ、いってしまえば手抜きです(^.^)

会津戦争における決定的な敗北により、故郷の地も、

肉親も親しい友人たちも、そして何よりも人間としての誇りを

失い、深い絶望の中に居た八重の心を解きほぐし、前へ進みだす

きっかけを作った人物として描かれた新島襄。

そんな彼は理想の学校作りのために命を削った結果、

その短い生涯を閉じようとしていました。

 

#47では、大日本帝国憲法発布を前に、

激務が襄の命を少しずつ蝕み続ける様が描かれました。

 

襄は心臓に疾患を抱えています。

私は当初、もしかしたらこれは脚気(かっけ)が原因かと思いました。

脚気は心不全の原因になるからです。

この時代、ビタミンB1欠乏により発症する脚気は結核と並ぶ国民病でした。

ただ、当時はその原因はわからず、臨床経験から栄養学的原因を主唱した薩摩出身の

海軍軍医・高木兼寛とドイツ帰りで病原菌説を唱える陸軍軍医・森林太郎(鷗外)らとの

論争は有名です。

今日では、当時の白米食と低蛋白が原因とされます。

この時代、たくさんの著名人が脚気が原因で亡くなっています。

第二次長州征伐の最中に他界した14代将軍家茂(いえもち)もそうですし、その妻の和宮

もそうであったといわれ、薩摩の若き俊英であった小松帯刀(たてわき)も脚気で夭逝しています。

また、こののち、清国との間に起こった日清戦争では、戦死者より多くの兵士が脚気で戦病死

しています。一方、海軍では麦飯を導入して、脚気患者を激減させています。

ただし、洋行帰りの襄は、日常的に白米食ではなかった節があり、肉や牛乳、卵などによって

動物性たんぱく質を多く摂取していたでしょうから、脚気が原因の心臓疾患ではなかった

かもしれません。

 

そういえば、ドラマ中、襄と八重が射的に興じる場面がありましたね。

八重は後年、こんな話を語り残しています(同志社大学『新島八重子回想録』所収)

襄は実はとても猟が好きだったそうです。

猟銃を使って、鳥を撃ってくるのです。しかし、その割には

 

「一体、襄は猟が大変好きなくせに、至って下手でした。

たびたび猟に出かけましたけれども、何時も空手で帰ることが多くて、

朝から昼にかけて、ひよ鳥の二羽もさげてくれば大手柄の方でした」(前掲書)

 

そりゃあ、会津戦争でその腕前を発揮した八重とは比べ物になりませんが、

襄が妻のそうした履歴(戦歴?)を知っていたかどうか、妻への対抗心みたいなもの

だしたら、ちょっと笑ってしまう話ではあります。

せっかくですから、このあたりの挿話を描いて欲しかったという気がしますが、

会津戦争後の八重の心情の変化を描く物語の流れ(砲術から学問への移行)

でいうと、射撃の話題を出すわけには行かず、ドラマで描かれたおもちゃの鉄砲による

射的シーンがせいぜいだったかもしれませんね。 

 

 

ついで、#48では、襄の最期が描かれます。

「グッバイ、また会わん」は、実際に彼が最期に語ったことば

とされています。

が、あえてそのあたりには触れず、二人の会津人について書きたいと思います。

あくまで、「福島応援」が主眼ですので・・・

 

幕末期、会津藩外交を担った梶原平馬と秋月悌次郎。

両名とも、一般的には余り知られない人物です。

明治後のこの二人について描いただけでも、このドラマは

画期的なことだったのではないでしょうか。

 

梶原平馬は、会津藩家中きっての名家である内藤家に生まれ、

梶原家の養子になった人物。ドラマにも登場した家老の内藤介右衛門

は彼の実兄にあたります。

妻が山川大蔵(浩)の実姉二葉であり、山川兄弟とは義兄弟の関係でした。

ちなみに、内藤家は甲斐の武田信玄の重臣の流れを汲み、

梶原家は鎌倉幕府草創期に活躍した梶原景時の末裔とされています。

平馬は、京都守護職時代から外交の最前線で活躍。

とくに、戊辰戦争時には、東北諸藩との連帯に奔走し、奥羽越列藩同盟

結成に尽力しました。しかし、新政府軍の攻勢の中、同盟はむなしく瓦壊、

会津藩は孤立し、絶望的な戦いに追い込まれていくことになりました。

ドラマでは、平馬は自身の判断が結果的に藩を滅亡に追いやったことを悔み続けた

という描き方をしています。事実、彼は主戦派で、恭順を唱える西郷頼母と

は徹底的な対立をしたとされ、西郷追放の原因になったといわれています。

そうしたことからすると、鳥羽伏見の敗戦の責任を負って自刃した神保修理や山本覚馬とも

志向が異なる人物だったかもしれません。

かれの斗南藩消滅後の行方は長い間知られていませんでした。

昭和63年になって、彼の後妻となった水野貞(テイ)が北海道・根室市の

教育史に名を留めていたことから、平馬の足跡が明らかになったのです。

彼は妻と共に北海道に渡り、明治22年にかの地で他界していたのです。

貞は、江戸の生まれで読み書きに明るく、教員として根室に招聘されて、

のちに私立学校の校長となった教育者でした。

前妻の二葉が同じく教育者となり、女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)で

寄宿寮長を長年務めたのは偶然だったのか。

ネットでは、貞と平馬は江戸(東京)で知り合い、二葉と貞は知り合いだったのでは

という見方を示している方もあります。

ちなみにドラマの中で平馬が晩年まで忘れ難く思い続けたと描かれていた

二葉との一子・景清は、二葉の薫陶を受けて育ち、海軍軍医として栄達を遂げています。

 

 

 

一方の秋月悌次郎は、かつて、日テレ版『白虎隊』では、名作刑事ドラマ『太陽にほえろ』

のヤマさん役で知られる露口茂が演じ、前半は見せ場もあったのですが、大政奉還後に

ドラマから姿を消すという中途半端な描き方をされてしまいました。

今回、名優北村和夫の長男・北村有起哉が演じた秋月は、その動向が丁寧に描かれ、

これも大切な扱われ方をした人物となりました。

司馬遼太郎氏は「ある会津人のこと」と題して彼について書いています(「余話として」所収)。

司馬さんはその中で秋月のことを、

 

 篤実な性格をもち、他人に対しては遠慮ぶかく、独り居ても自分を慎むような人で、

 その性格のままの生涯を送った。

 

と書いています。また、

 

 秋月悌次郎をぜんたいとして言ってしまえば江戸末期の典型的な知識人であり、明治後も

 敗れた側として新政府に反撥するわけでもなく、その保守的教養や倫理観のわくのなかで

 謹直に暮らし、やがて老いた。

 

とも書いています。

 

彼は会津藩の下級武士の家に生まれながら、藩校日新館では秀才とうたわれ、

江戸へ留学、昌平坂学問所では学生長のような役目をながく務め、多くの知己を得ました。

京都守護職時代には公用方で諸藩藩士たちと交流し、薩摩藩との同盟の立役者となります。

会津戦争においては、降伏の使者に立ち、鶴ヶ城内であえぐ多くの命を救いました。

降伏後、会津の次代を担う若者たちが立ち行くように、旧友の長州藩士・奥平謙輔に

山川健次郎らを託しています。いうなれば、健次郎がのちの東大総長となったきっかけを作った

のが、この秋月だったのです。こののち、彼は戦争責任を問われて、終身禁固刑となりますが、

特赦で放免され、新政府に出仕、やがて教育者としての道を歩みます。もともと漢籍にすぐれた

才を発揮していて諸藩の士から尊敬を受けていた秋月は権謀術数をこらす外交官よりも

教育者の方が向いていたにちがいありません。

ドラマで描かれたように彼は熊本の第五高等学校(のちの熊本大学)に赴任して教鞭をとり、

そこで、『怪談』で知られる作家の小泉八雲ことラフカディオ・ハーンと同僚になります。

八雲は秋月を崇敬し、神のようなひとだと評しました。

司馬さんの「ある会津人のこと」には、この逸話について、

 

八雲は秋月先生はだんろのようなひとだ、近づくだけで暖かくなるといい、

ついには、

 「この学校には二方の神がいる。一方は私が奉じている白衣を着たキリストであり、

 もう一方は黒衣を着ている」といった内容で紹介されています。

 

この黒衣は、秋月が常用していた黒紋服のことだそうです。

彼の温和な性格を彷彿とさせるエピソードです。

 

波乱の人生を歩んだ秋月は、晩年には東京に住み、酒と詩文に親しむ生活を送り、

明治33(1900)にその生涯を閉じています。

 

 

 

梶原にしろ秋月にしろ、これまで多く描かれる人物ではなかったために、世間一般には

知られていない人物でしたが、ドラマではとても大切に印象深く彼らを描いています。

今回の、明治後の姿まで描かれるというのは、ある意味では破格の扱いであり、

ふたりとも泉下でいかなる心境でいるのでしょうか。

 

 

さて、今週日曜日に描かれたのは山本覚馬と松平容保の死。

ドラマはいよいよクライマックスに近づき、そして、来週の日曜日には50回目をもって

最終回を迎えます。このコーナーも、あとほんの少し。

 

 

ひとまず、次回の「再び戦を学ばず」につづきます。

 

 

 

 

 

 


 

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