社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘

愛知県名古屋市守山区にある『社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘』のブログ

06
2017-09

夏・芸・州・旅②「呉 前編」

投稿時間 : 14時00分00秒

カテゴリー : 史跡をゆく

ジャンル : 日記





今夏、我が国の北に位置する半島の情勢が実に騒がしかった。

今月に入ってもそれは引き続いており、さる3日に突如として強硬された核実験により、

事態はますます悪化の一途をたどっているといっていい。

そんな歴史的タイミングで他ならぬ広島の地を旅したことは単なる偶然とはいえ、

旅を終えて早10日ほどが過ぎた今でも、旅先で目にしたり、新しく得た知見をもとに

戦争や軍事あるいは核兵器というものを考えるとき、それを純粋に過去の歴史的出来事

として捉えることがどうしても難しく、むしろそれらを現代への地続き感ある事象として見つめ、

昨今の世界情勢に照らして考えるざるをえず、ゆえに心の中のざわめきがなかなか

鎮まらないでいる。

とにもかくにも、今後、事態が穏便に決着することを望むほかないが、今だからこそ

書いておく必要のある、伝えるべき何事があるように思える。

そんなことをあれこれと考えながら、この稿を細々と書き続けている。



宮島で一泊した翌朝、私たちはかつて旧帝国海軍最大の根拠地であった呉へ向かった。

広島県呉市(旧安芸郡呉)は、かつては呉浦と呼ばれ、明治まではごくありふれた漁村だった

ようである。

ここにに鎮守府が置かれることになったのは明治22年のことであるが、旧幕府海軍出身で

明治海軍の将官となった赤松則良により、時の海軍卿・川村純義(薩摩藩出身で西郷隆盛の

親戚にあたる)に対して「西海に造船所を新設すべき」との建白書が出されたのは西南戦争

終結から4年後のことである。これを受けた川村は三条実美太政大臣に対して同様の旨の

上申書を提出している。

この当時、旧幕府時代に勘定奉行・小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ。明治

元年、新政府軍に捕えられ斬首される。後世に徳川埋蔵金伝説を遺す)がナポレオン三世

統治下のフランスの資金的・技術的援助を受けて建造した横須賀造船所が既に存在し、

のちにこれが横須賀鎮守府のもとになっていくが、西と東に海軍の根拠地たる鎮守府を設置

する案が西南戦争以前からあり、測量の結果、呉浦もその候補地となった。

その他には、長崎の佐世保、日本海側の舞鶴が候補とされ、一時は北海道南部の室蘭も

合わせ、五鎮守府が置かれる計画もあったが、室蘭には結局は設置されず、最終的には、

横須賀、呉、舞鶴、佐世保に鎮守府が置かれて「四大鎮守府」とよばれ、

紆余曲折を経ながら終戦まで続く。


呉については薩摩出身の肝付兼行により、「此呉湾ヲ除キテ他ニナシト決シ」との報告が

提出され、佐世保を候補地と定めたのは同じ薩摩出身の東郷平八郎だったといわれているが、

共に背後を山に守られた防御に適した似たような地形の港であり、特に瀬戸内に在って外海に

面していない呉は軍港として最適地だったと思われる。

ついでに触れておくと、肝付の調査結果を受けて「呉湾が理想的な立地である」との意見書を

書いたのが、やはり薩摩出身の樺山資紀だが、彼は先日書いた西南戦争の記事にも登場した

熊本鎮台参謀長と同一人物で、草創期の明治海軍はよほど人材不足だったのか

西南戦争後に樺山は陸軍から海軍に転じており、のちに海軍大将まで累進している。

このように陸軍から海軍へ転じた例としては、西郷隆盛の実弟である西郷従道(彼は

この地方では、明治村内に存する旧邸宅の主として馴染み深い)も同様であり、

いかにも草創期らしいおおらかさだろう。

それはともかく、名もなき漁村でしかなかった呉が一躍全国に知られるまちになったのは、

まさにこのときからである。

政府は明治19年5月に第二海軍区鎮守府として呉港を設定。同時に開発が始まり、

これに合わせ、当時東京・築地にあった海軍兵学校も、呉とは海を挟んだ向かい側の

瀬戸内海に浮かぶ江田島への移転が決定

そして、明治22年7月に呉鎮守府が開庁されている。

さらに赤松が建白した造船部門および軍艦が搭載する兵器を製造する造兵部門も呉に置かれ

ることになり、それぞれが造船廠、造兵廠として発展、日露戦争前夜の明治36年に両者が合併

して呉海軍工廠となる。ここで生み出された艦艇は、有名なものだけでも、戦艦長門や大和、

ミッドウェイ海戦で沈んだ機動部隊旗艦の航空母艦赤城など枚挙にいとまがない。

海軍工廠は尚も膨張を遂げて、呉の東に山を挟んで隣接する「広(ひろ)」という地域

呉工廠広支廠」が置かれ、同支廠は大正12年に広海軍工廠として独立し、

やがて海軍最大飛行機試作機関として発展を遂げていく。

呉および周辺地は、このように日本海軍の発展と共に誕生し膨張を続けた町であり、

インフラ整備も全国に先駆けて優先的に行われ、そこで勤務する軍人、職工らが全国から

集まり、それを目当てに様々な産業が発展し、国内有数の先進地帯となっていく。

しかし、それがゆえに、太平洋戦争末期には14回にもおよぶ米軍による苛烈なく空襲を経験し

て大きな被害を被り、また、8月6日朝に発生した「広島市壊滅」という未曽有の事態に対して

呉鎮守府からいち早く調査団が派遣され、国内ではじめて、その事態が米軍より投下された

原子爆弾によってもたらされたことをつきとめ、その後多くの人々が救護活動のため呉から

広島に入り、あの悲劇を目の当たりにすることにもなったのである。


いささか余談が過ぎたが、以上が軍港として発展し、今も海上自衛隊の基地(呉地方隊)

となっている呉の歴史のあらましである。

ここでさらに余談を差し挟むと、呉、そして隣接する広は、飯干晃一のノンフィクションやそれ

を原作とした東映映画『仁義なき戦い』(深作欣二監督)シリーズで知られる広島やくざ抗争

発火点となった土地としても知られる。

巨大な軍港都市であり、東洋一の海軍工廠があった呉には、多くの血気盛んな職工たちが

働き、まちはそれゆえに明暗両面において殷賑を極めたが、終戦となり、軍が解散され工廠

も閉じられると、一気に失業者が溢れ、治安は急激に悪化、復員してきた兵隊崩れのアウト

ローたちや博徒、テキヤたちが入り乱れて血で血を洗う抗争を繰り広げていく

更に呉には集積された多量の軍需物資や米軍の攻撃によって湾内に擱座した無数の軍艦

残骸、使用される事が無かった膨大な特攻兵器や砲弾類が遺されており、彼等から

見ればこれらは巨大な宝のだった。その処理と売買の利権を巡って対立抗争は激化し、

請け負った人々は巨万の富を得て、それを元手に裏社会を牛耳り、更にそのあくなき欲望

を満たすべく抗争は拡大し、激化の一途をたどったのである

今、呉のまちにはそうした面影は微塵もないが、これは明治以後、海軍の町として特殊な

発展遂げ、終戦ですべてが崩壊したことによって引き起こされたあまりに巨大な反動、

それまでこの地に溜めこまれてきた、ある種狂気の巨大エネルギーの暴発だったと

いえるかもしれない。


閑話休題・・・


私の父が3歳のころ、祖父は呉海軍病院に勤務しており、祖母と父の3人で呉の軍港を

見下ろす借家で生活していた時期があったという。

昨秋公開され、国内外で高い評価を得たアニメ映画『この世界の片隅で』(片渕須直監督)

主たる舞台となり、一躍注目を集めたこの呉の町は、だから私にとって有縁の地なので

ある。

思い返せば、私がこれまで第二尾張荘で関わった男性利用者のうち、大正2年生まれで私の

祖父と同い年である北区出身の故Gさんは元海軍水兵であり、戦艦日向(ひゅうが)に乗艦

しておられたことを自身の若き日の誇りのように語っておられた。この日向が最後を迎えた

のは他ならぬ呉であり、さきほどのべた終戦間際の呉空襲によって大破、湾内に擱座しており、

今日、米軍が終戦後に撮影したカラーフィルムでその様子をみることができる(youtubeで視聴

可)。

いつまでGさんが日向に乗っておられたかは、ご本人が鬼籍に入られた今となっては、もはや

確かめようもないが、おそらくGさん自身は呉で血と汗がにじむ青春時代を送った経験があり、

呉のまちに深い思い出を抱いておられたに違いない。

また、位牌の装飾を造作する仏具職人だった故Kさんは守山郷土史研究会の古いメンバーで、

会報誌「もりやま」にたびたび寄稿されていたが、軍事雑誌『丸』にも戦争体験記を投稿し、

また、地元の小学生たちへの語り継ぎ活動もなさっていたようである。

Kさんは腕が悪くて小銃を持つことが出来なかったために徴兵検査に合格せず、そのかわりに

海軍に志願し、衛生兵として呉海軍病院で訓練受けたのち、南方の最前線基地だったラバウル

赴いた経験をもっておられた。晩年、在宅で奥様の介護をされながら、海軍時代の経験がある

から苦にならないと語っておられたのがとても印象的だったが、このKさんにとっても、呉は思い出

深い土地だったに違いない。

先ほど述べたように、日本国内には四つの鎮守府が置かれ、その管轄下で4つの海軍区

に区切られていたが、愛知県は横須賀鎮守府の海軍区に属していながら、県内の多くの海軍

志願者は呉海兵団あるいは同じ広島の大竹海兵団に入団したようである(このあたりの事情に

ついては、私はあまり詳しくない。かつてこれについて書かれた記述を読んだ記憶があるが、

それがどの本に書かれていたか定かでない。ただ、手元にある呉鎮守府籍の大和の戦死者

名簿の愛知県出身者は303名と全体の1割にあたっている。一方、祖父が乗艦した矢矧は

佐世保鎮守籍であり、ゆえに九州地区の出身者が多く、愛知県出身者は私の祖父を含めて

ほんのわずかだったと記憶する)。

つまり(いささか強引だが)、この地方から海軍の門をくぐった人々の多くは、まず呉でその

第一歩を踏み出したという意味において、呉はこの地方の人々と決して無縁ではないという

ことである。

さらに脱線すると、ほんの10年ほど前まで(こういう仕事柄ということもあるが)、

先の大戦を兵士や銃後にあって体験した人が身近に数多くおられ、当時の話を直接伺う

機会が多々あった。

先のGさんやKさん以外にも、勤労動員により工場で働き、軍用機の燃料タンクを作っていた

いう女性もおられたし、目の前で米軍の爆弾が炸裂し大切な家族を一気に失うという悲劇に

見舞われ女性もおられたし、終戦の夏に施設からほど近い松川橋付近を歩いたTさんが

米艦載機の猛烈機銃掃射を受けて命からがら逃げ延びた(ちなみにその方は非常な健脚

の持ち主で、後年市民ランナーとして地元で名を馳せた)という話も伺った。

施設からショッピングで出かけた平和な某ジャスコのフードコートでコーヒーを飲みながら、


「バリバリバリバリ!!」


ただでさえ地声が大きいのに、更に大きな声を張り上げてそのときの機銃の轟音を再現しようと

されたTさん話しぶりに場所柄ハラハラしたことを今でも昨日のことの様に懐かしく思い出す

が、今の若い人たちは、そうした貴重な経験を高齢者の方々と持つことが実に難しくなって

いる。

そして、注意しなければならないのは、これからの時代は、自身は戦争経験がないままに戦争を

語る世代が大勢出てくるということである(これは私自身も含めて)。

聴く側にはあらかじめ、それを聴くに足る、それ相応の基礎学力やリテラシーを自学自習して

身に着けておく必要があるし、一方でそれを語り継ぐ側には、しっかりした知識の習得はむろん、

その思想信条に関わらず、あったことをありのままに偏らずに次世代へ伝え続ける節度が

重要だと思うが、果たしてどうだろう。






連絡船で宮島口へ戻り、そこから呉までは広島経由でJR呉線の普通列車で約一時間。

案外かかるものだと思ったが、もしかしたら宮島からであれば、かつてそうであったように、

直通船便の方が時間的には早くいけるのかもしれない。




列車を降りて改札へ向かうと、ご覧の様に『世界の~』の主人公すずとその声を演じた

「のん」こと能年玲奈嬢の立て看板が出迎えてくれた(共にモンペスタイルである)。




めざす呉市海事歴史科学館(通称・大和ミュージアム)まではここから徒歩10分弱。

平成17年4月に開館して以来、ずっと訪れたかった場所である。

駅からの立体回廊を通り、駅に隣接するショッピングモール内を抜けると、正面に見えるのが

お目当ての大和ミュージアムだ。

通りを挟んでその向かいに見えるのが、海上自衛隊呉資料館(通称・てつのくじら館)。

平成16年に退役した海自の「ゆうしお型潜水艦・あきしお」の実物がすごい迫力だ(今回、

時間の都合上、覗けなかったのが残念)。





ミュージアムの前には、大正期から昭和にかけて、姉妹艦の戦艦長門(ながと)と並び

日本海軍、聯合艦隊の象徴的存在だった戦艦陸奥(むつ。当時の児童向けカルタには、

「む 陸奥と門は日本のほこり」という絵札があったほど、一般国民に馴染みがあった

軍艦であるの艦体や装備の一部屋外展示されている。

陸奥自体は横須賀海軍工廠で建造されたが、主要な装備品の多くは呉で製造されて

横須賀へ運ばれ、組みつけられたという。

また、太平洋戦争中には、対空装備増設のため、呉海軍工廠に入渠しているというから、

陸奥もまた、ここ呉とは有縁だったということになる。





陸奥は大戦中の昭和18年6月、岩国沖の柱島泊地において、今日も謎に満ちた爆沈事故

遂げている。

ここではそれについて詳しく触れる余裕はないが、お知りになりたい方は、戦争についての

数々の名著がある吉村昭氏の『陸奥爆沈』(新潮文庫)をお読みいただきたい。

あたかも海軍という組織の本質と閉鎖された軍艦の暗部を覗き見るような、深い謎に満ちた

内容となっている。

この陸奥爆沈事故にあたっては、むろん、呉鎮守府から調査団・救助隊が派遣されている。



手前は旗竿。



ついで、主錨。



これは艦首フェアリーダー。係船用器具のことで、

艦船を港に係留する際、もやいロープや鎖をここから出すことで、絡まったりすることを防ぐ

ための艦船装備である。





41センチ主砲身。実に巨大である。

ちなみに、大和・武蔵が搭載した主砲は口径46センチであり、さらに巨大だった。



説明版によれば、この主砲身はもともと呉海軍工廠で開発された当時世界最大の砲身を

北海道室蘭にあった日本製鋼所で量産鋳造されたうちの二号砲で、砲尾に「室2」の刻印

があり、昭和11年に陸奥に搭載されたものである。




これも巨大なスクリュー・プロペラ。





そして、こちらも巨大な陸奥の主舵。




これらはいずれも、沈没した海底からサルベージされた実物の陸奥の艦体の一部。

個人的な趣味嗜好として、こうした日本の古い軍艦や機械は大好きである。

しかし・・・

20世紀半ばまで、巨砲の打撃力によって海戦の主力兵力であった戦艦。

姉妹艦長門と並び、世界七大戦艦「ビッグセブン」と呼ばれるうちの一艦であった陸奥は、

いうまでもなく、戦争という巨大な魔物を象徴する存在でもある。

そのあまりの大きさを目の当たりにし、マニア的に心躍る自分がいる一方で、

その威容は機械の力で人間を殺戮する近代戦争の本質、まがまがしさを具現化するには

十分であり、醸し出される圧倒的な威圧感を前に、思わず立ち尽くす自分がいた。




このあと「大和ミュージアム」館内へ向かうが、前置きが長くなりすぎたので、

稿を改めることにする(以下、「呉 後編」につづく)。




参考資料 『大和ミュージアム 常設展示図録』




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27
2017-08

夏・芸・州・旅 ①「宮島編」

投稿時間 : 18時00分00秒

カテゴリー : 史跡をゆく

ジャンル : 日記





良くある勘違い(これは昨年放送されたNHK『ブラタモリ』宮島編でタモリ氏も同じことを

いっておられた)だが、私は若いころ、「安芸の宮島」を「秋の宮島」だと思い込んでいた。

広島県の宮島は、瀬戸内海に浮かぶ日本有数の景勝地であり、

丹後の天橋立、陸奥の松島と並び、日本三景の一つとして数えらえている。

土地の銘菓として「もみじ饅頭」はあまりに有名であり、紅葉の名所でもあるから、

「宮島に来るなら秋が気候的に良い」という意味の言葉だと思い違いしていたのである。


そんな戯言はともかく、今夏はじめて広島(安芸国・芸州)の地を踏んだ。

これは妻から宮島の厳島神社へ連れていけと前からずっといわれていたからでもあるが、

それだけの動機ではあまりに浅薄にすぎる。

せっかく時間とお金をかけていくのであれば、小学生の子どもたちにとっても学び多き旅

にしたい。

そう考えた私たちは、宮島に呉と広島を組み合わせた二泊三日の旅程を構想した。

かかげたテーマは、「戦争と平和を考える安芸の夏旅」である。



明治期に海軍の鎮守府が置かれ、戦艦大和が建造された呉と、

人類史上はじめて原子爆弾が実戦使用された広島は、そうしたテーマに適合する。

一方、厳島神社はテーマから外れると思われる向きがあるかもしれない。

しかし、私の中では実は全てがつながっているのである。

私が小学六年生だった昭和56年夏に公開された東宝映画『連合艦隊』(松林宗恵監督)

には、この厳島神社が、主人公とヒロインの別離にまつわる重要な場所として登場する。

私が宮島と厳島神社を意識した最初が、戦艦大和とそれにまつわる人々を通して聯合艦隊

終焉を描いた、この映画によってであった。


宮島は戦前すでに名高い観光名所として多くの旅館が厳島神社周囲に並び立ち、

岩国沖の柱島にあった聯合艦隊泊地や呉から近いこともあって(現在も呉からは直行の船便

がある)、海軍軍人らにとって、面会のために家族を呼び寄せるにはちょうど良く、

馴染み深い場所だったようである。

聯合艦隊最後の艦艇による作戦行動を敢行した戦艦大和とそれを護衛する第二水雷戦隊

の参加将兵たちだけでなく、明治以来多くの海軍将兵がここで愛する家族との別れを惜しんだ

であろう。

余談だが、昭和20年1月、現在の豊田市浄水付近にあった海軍航空隊名古屋航空基地

から第二水雷戦隊旗艦・二等巡洋艦(軽巡洋)「矢矧(やはぎ)」の軍医長に転任した私の

祖父は、昭和14年に短期現役士官任官以来初めての海上勤務であり、

やがて敗色濃厚な戦局から死を覚悟したのだろう、郷里・犬山の実家から面会のために

家族を呼び寄せている。

今年満103歳になる祖母の話によれば、舅(私の曽祖父)と5歳になったばかりの私の父、

生まれたばかりの叔父と共に途中何度か空襲警報によって鉄道が足止めを食いながら、

場所は宮島ではないが、何とか出撃前の祖父との最後の面会を果たしているこのとき

私の曾祖母は 、年老いた姑の世話のため、やむなく犬山に残っており、一人息子だった

祖父とはついぞ会うことができなかったから、祖父が戦死したときの悲嘆ぶりはいかばかり

だったろう。

この旅の前に前出の『連合艦隊』をDVDで久しぶりに見返したが、登場人物たちを我が家

72年前の歴史に重ねて、いつもながら、つい目頭が熱くなった。

私の中での宮島・厳島神社は、だから、昭和の戦争の時代と離れがたく結びつくのであり、

この古来から神が宿ると信じられた場所だった島は、無数の海軍将兵とその家族たちの

生き様を見届けてきた存在のように私には思われてならないのである。



前置きはこれくらいにして、せっかくだから宮島と厳島神社の画像を多数紹介しておこう。

まずは冒頭同様、「観音様の寝姿」に譬えられる神々しい山容が美しい宮島の最高峰の

弥山(みせん)である。

宮島口からの船上からこれを目にした乗客(外国人旅行者が実に多かった)は、

すでにアゲアゲである。





いよいよ進行方向に、世界遺産・厳島神社が見えてくる。

遠景も実に美しい。



厳島神社の創建は6世紀末といわれるから、実に古い。

祭神は水の神であるイチキシマヒメで、厳島(いつくしま)の名はここから転じた

とされているが、背後にある弥山そのものが巨大な御神体といっていい。

この島自体が、数百万年前は巨大な一個の花崗岩の塊であったといい、

節理と呼ばれる自然の割れ目に沿って風化したのが今日の姿だという。


厳島神社を保護し、寝殿造り様の現在の形に整備したのは平清盛である。




いよいよ、念願の厳島神社境内へ。

もう何も言うことはない。

海に浮かぶその姿は、まるで絵画のように美しい・・・ただそれだけである。


この日は日差しが強く、大変暑かったが、その分写真が色鮮やかに撮影出来た。

訪れたのはちょうど引き潮の時間帯であり、みるみるうちに海水が引いていく様が

見ていてとても面白かった。













神社の特徴の一つである平舞台。現代にも通ずる美しいウッドデッキである。













楽房ごしの大鳥居。



勅使のみが渡ることを許された反橋(そりばし)。

毛利元就とその嫡男隆元の寄進と伝わる。



能舞台。尾張出身で、毛利家、福島家に次いで広島藩主となった浅野家の寄進であるという。



長年補修を重ねて使われ続けている床板も、すべてが意味ありげで素晴らしい。





この日は、本当に暑かった。

名古屋の夏の暑さも半端ではないが、瀬戸内の夏も実に暑い。

境内を巡り、御朱印をいただいた後、当初はロープウェイに乗って弥山へ登る予定だったが、

大げさではなく熱中症で倒れそうだった。

途中、町屋をリノベーションしたジェラート屋さんで小休止した後にロープウェイに乗ったが、

最終便との兼ね合いもあり、結局、登る時間がなかった。

せっかくここまで来たのだから、やはり弥山は登りたかった。冒頭の勘違いのような「秋」では

ないにしろ、もう少し気候が穏やかな時季にゆっくり再訪したいものである。

みなさんも、もし宮島を訪れるならば、真夏だけは避けたほうが無難。

それでも、降りた後の獅子岩展望台からの瀬戸内海の景色は好天もあって最高だった。

まず弥山山頂方面を見る。







東の方には、今回の旅では寄ることのできなかった江田島が見える。

画像中央の島の上にあるのがそれであり、その奥には翌日の目的地の呉がある。

江田島は最初に海軍兵学校が東京築地に作られたのち、学校ごと移転された場所であり、

終戦まで数多くの海軍士官たちを養成した日本有数のエリート校であった。

その跡地には現在、海上自衛隊の学校が置かれているが、玉葉会乳児院A院長は高校の

修学旅行の際、なぜだかここで短艇(カッター)訓練を受けさせられたのだという。





10年ほど前、祖父と同じ「矢矧」に乗っていた若き海軍士官だった建築家の池田武邦氏に

江田島時代思い出についていろいろと伺ったことがある。

中でもっとも印象深かったのは、短艇に食料と寝具類を乗せ、気の合った兵学校のクラス

メートらと周辺の島々を巡ったという話だった(有志短艇巡航とよぶらしい)。

まだ少年のあどけなさが残る海の若人たちがたどり着く静かな夜の瀬戸内の無人島。

まもなく戦地へ赴く彼らにとって、美しい月明かりだけで仲間たちと過ごしたその時間がどれほど

貴いひとときだったか。つい古いジュブナイルに出てきそうな美しい情景を想像してしまうが、

こうして瀬戸内の島並を見ているうちに、10年前に伺ったそんな話もふいに思い出された。

池田氏への聞き取りをもとにして書かれた『軍艦「矢矧」海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争』(井

聡著 光人社)によれば、兵学校生徒は分隊対抗で江田島から宮島まで短艇で競争したり、

弥山登山を競ったというから、彼ら若き兵学校生徒にとっても、この宮島は特別な存在だった

といえるだろう。



そして・・・



北東の方角には広島市街地が一望できた。

こうしてみていると、72年前のあの日、ここに天を衝くほどの巨大なキノコ雲が立ち上ったとは

どうしても信じられない。そして、その下で何が起こっていたのか・・・

この神なる島は、人類史上最大最悪の悲劇も目撃していたのだ。





この日はこれで終わりではなく、宿に入り、食事を済ませた後、ナイトクルーズに出かけた。

ライトアップされた厳島神社を海側から見るという趣向のツアーである。

夜の厳島神社も幻想さが増して格別だった(ピンボケ気味なのはご容赦願いたい。












こうして夏旅初日、宮島の夜は更けていった・・・(次回「呉編」につづく)








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15
2017-08

終・戦・日・考

投稿時間 : 12時00分00秒

カテゴリー : 史跡をゆく

ジャンル : 日記





今年もこの日がやってきた。

72年目となる終戦の日である。

先の大戦の記憶は、いま体験者がつぎつぎと鬼籍に入っていく中、急速に薄れつつある

といっていいが、われわれ高齢者福祉に携わるものはその思想信条にかかわらず、

ご利用者のみなさんがどのような幼少年期を生き抜いたかを知る上においても、

この時代について関心を持っておくべきであるというのが私の個人的な考えである。


夏のこの一時期、テレビでは戦争にまつわる番組が数多く放送される。

NHKスペシャルだけでも、原爆、731部隊、終戦後に発生した樺太戦の悲劇、そして

戦史上まれにみる愚策といわれたインパール作戦など、その切り口は様々である。

一昨日に放送された池上彰さんの特攻をテーマにした特番も、日米双方の生存者

の証言も交え、大変重みのある内容であった。


出版界においてもこの時期、近代戦争をテーマにした書籍の刊行が続く。

つい先月まで、『応仁の乱』にかまけてすっかり中世モードであったのだが、暑い夏の日が

やってくると、どうしてもその手の書物を読みたくなってくるから、我ながらとても不思議だ。

今月に入ってからたまたま書店で目について購入した刊行間もない三冊の新書は、

すべて先の戦争関連それである。これらも書き手、切り口は実に様々だ。


一冊目は『靖国の軍馬  戦場に散った一〇〇万頭』(祥伝社新書)。

著者は編集者出身のノンフィクション作家・加藤康男氏。

妻は近代史を題材にした多くの著作を持つノンフィクション作家の工藤美代子氏で、

どちらかといえば、世間的には奥様の方が有名かもしれない。

加藤氏が年頭に上梓した『三笠宮と東條英機暗殺計画  極秘証言から昭和史の謎に迫る

(PHP新書)は、昨年百歳で薨去された三笠宮崇仁親王への12時間におよぶインタビュー

を交え、宮が関わったとされる東條英機暗殺未遂計画の真相に迫るというとても興味深い

内容であったので今回も外れは無いだろうと手にしたのだが、こちらも題材がとても新鮮

だったせいもあり、大変興味深く読むことが出来た。


  軍用の馬たちは「天皇の御分身」だった!


とのコピーが帯にあるが、明治建軍以来、騎兵や輜重(しちょう)など軍隊で重用された馬たち

と人間が歩んだ終戦までの過酷な歴史を辿った一書であり、戦争の非情さを痛感させられる

内容となっている。

これを読んで思い出したのが、中区丸の内にある名古屋護国神社近くの名古屋城の堀端に、

歴史に忘れられたかのように佇んでいる軍馬軍犬軍鳩の慰霊碑(以前スマホで撮影した記憶が

あるのだが、画像データが見当たらず残念ながら今回紹介できない)である。

戦争中、馬、犬、鳩といった動物たちが徴発され、外地の戦場へ送られて多くが悲惨な末路を

辿り、あるいは軍隊の復員時にもそのまま置き去りにされて一頭たりとも日本の土を踏んで

いないといわれている。

物言わぬ彼等だけに、より一層切ない気持ちになるが、これも戦争のひとつの現実である。



二冊目は日本経済新聞記者として近代史や皇室に関する著書が多数ある井上亮氏による

『天皇の戦争宝庫 知られざる皇室の靖国』(ちくま新書)である。

皇居(戦前は「宮城(きゅうじょう)と呼ばれた)吹上の一角にある5つの施設。

「御府(ぎょふ)」と呼ばれるそれらは、明治時代の日清戦争から先の大戦まで、さまざまな

戦利品や兵器、戦没将兵らの名簿や遺影を収蔵する場所として設けられ、

天皇が日々英霊に祈りをささげる場所とされてきた。

終戦によって収蔵品の多くは処分され、現存する建物は倉庫として使用されているというが、

部外者の立ち入りは制限され、宮内庁が取材すら認めていないという皇居最後の禁忌(タブー)

といわれる場所である。

私自身がこの存在を知ったのは、「文藝春秋2016年11月号」に掲載された井上氏による

短いルポによってだったが、あらためて一冊の新書にまとめられたものを読んでみると、

その歴史的経緯の複雑さがよくわかり、今後解明されていくべき存在であるということが

再認識できた。あたかも日本近代史のエアポケットの中を覗き見るがごとき思いがする一書

である。



そして、今通勤用のトートバッグに入れて読み進めているのが埼玉大学・一之瀬俊也教授の

『飛行機の戦争 1914-1945  総力体制への道』(講談社現代新書)。

まだ160P(全体の1/3)ほどしか読めていないのであれこれとは書けないが、

第一次大戦において画期的新兵器として登場した飛行機の存在について、政府や軍、

一般国民がどう捉え、その認識が先の大戦における総力戦体制下でどのように影響したか

について論じられている。昨年同氏の『戦艦武蔵―忘れられた巨艦の航跡』(中公新書)

について触れたが、今回も大変な労作だと思う。


以上三冊はテーマも書き手の思想信条も様々であるが、確実にあの時代の日本のある一面を

鮮やかに切り取っているという点において、私の中では等価である。



さらに私事だが、今夏の家族旅行で、生まれて初めて広島の地を踏む。

昨年のオバマ演説の影響というわけではないが、

そろそろわが子たちにも原爆の真実をしっかり伝えておきたいと思ったからである。

娘はすでに小6だから年齢的には十分、息子は小2だが私が戦争について最初に意識を

もった時期がちょうどそのころだったから、まあ早すぎるということはないだろう。

そして、同時に呉の海事歴史科学館(通称「大和ミュージアム」)も訪れる。

戦艦大和以下10隻の艦艇からなる第一遊撃部隊の沖縄への海上特攻作戦(天一号作戦の

一環)に参加し戦死した私の祖父について伝える為である。

彼らがそれぞれの場所で何を感じ取るかは分からないが、次世代に向けて様々な切り口から

先の大戦について「伝えていく機会をより多く作る」ことは、われわれ大人の大切な責務である

と強く思っている。




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