社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘

愛知県名古屋市守山区にある『社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘』のブログ

05
2012-12

『そして、家康の時代へ・・・』

 

今から477年前の冬、大望を抱いたひとりの若き武将が、

守山の地において、志半ばで非業の最期を遂げた。

彼の名は、松平清康。

そして、彼の横死事件を、守山崩れという。

 

 

①大樹寺(岡崎市鴨田町)境内にある松平清康の墓

②③ 同 松平8代(初代親氏~8代広忠)の墓所とその説明板

 

⑤現松平郷の風景(豊田市松平町)

⑥初代親氏像(豊田市松平町)

⑦松平郷・高月院境内にある初代親氏・二代泰親墓所

 

時は室町年間。

氏素性の定かでない一人の漂泊の人物が辿り着いた三河国加茂郡松平という

山間の郷村を起源に派生し、200年近い長い年月をかけて

歴史にその名を刻み始めた松平家という新興豪族と、

彼らに臣従する家臣らの命運を一変させたこの出来事をめぐる思索の旅も、

今回で終わろうとしている。

以下、事件後の顛末について点描したい。

 

 

 

事件後、遺児仙千代は、松平信定によって岡崎城を追われたが、

清康殺害の実行犯・阿倍弥七郎の父定吉(大蔵)に守られて、

周辺各地を流浪の末、大久保一族の活躍で帰城を果たし、

結局、信定は家督の簒奪に失敗、失意の中、世を去る。

阿倍定吉のこうした行動は、不肖の倅が仕出かした

大変な不始末に対する、せめてもの贖罪であったのだろうか。

それとも・・・?

 

清康の跡目を継いだ仙千代こと松平広忠は、

駿河の今川義元を後盾として、家勢の立て直しを図り、

尾張織田家との戦いに明け暮れる。

そんな中、天文11年(1543)、待望の嫡男が誕生する。

幼名竹千代。のちの徳川家康である。

松平家の未来を担って誕生したこの幼童の半生は、

しかし、決して安閑なものではなく、

筆舌に尽くしがたい幾多の辛酸をなめることとなる。

 

生母のお大は、生家水野家が織田方についたため離縁され、

竹千代は2歳で母と離れ離れとなり、

自身も6歳のころ、人質として今川へ向かう途中、

渥美戸田家の策略によって、宿敵織田方に囚われてしまう。

のち、安城城攻防をめぐる捕虜交換にて、再び今川方の人質となるが、

この間も悲劇は続き、祖父についで父も家臣の凶刃に倒れる。

この際使用されたのも、「守山崩れ」で祖父清康の命を奪ったのと同じ、

「村正」であったという(『三河物語』は病死とし、『松平氏由緒書』は、

家臣に腹を刺され、その傷によって腹に血がこもり、死んだとしている)。

 

⑧大林寺(岡崎市魚町)境内にある松平広忠の墓

 

元服し、松平元信、ついで松平元康を名乗った彼は、

戦陣にて今川軍の先鋒としての役割を律儀に務め続け、

数々の死闘の中で多くの一族、家臣らが命を落とす。

そんな彼にも、やがて、転機の時が訪れる。

それは、忽然として、尾張の地からもたらされた。

 

「尾張の虎」と呼ばれ、清康の同世代のライバルともいうべき存在であった

織田信秀の栄光は長くは続かず、今川氏、美濃斎藤氏との戦いの中で、

徐々に追い込まれ、流行り病にて逝去。

その遺志を継いで尾張統一を成し遂げたのが、

うつけ者とよばれた嫡男信長であった(ちなみに、このころ、

守山城はその歴史的役割を終えたという)。

その信長が、永禄3年(1560)に生起した<桶狭間の戦い>で

今川義元を敗死させるのである。

 

⑨「三河一向一揆」の際、一向宗の拠点のひとつとなった本證寺(安城市野寺)

 

元康はこれを好機と、慎重かつ大胆に今川のくびきを離れて、

岡崎へ帰還し、やがて信長と盟約を結んで独立を果たすが、

その後も様々な苦難が彼を襲う。

<三河一向一揆>では家中を二分する熾烈な戦いを経験、

信長との同盟関係も決して楽なものではなく、

信長の命で嫡男信康を切腹させ、妻をも殺害しなければならない

という痛恨事をも経験する(原因には諸説ある)。

信康の介錯には、またしても「村正」が使われたという。

 

ついでにふれておくと、伊勢の刀工による「村正」は、

三河の地においては、実はありふれた刀剣であり、

清康、広忠、信康の命を奪ったのが「村正」であったのは、

単なる偶然であったといわれる。ただし、幕府の公式史料

『徳川実記』には、信康切腹後の家康が、

なぜ村正はわが家に祟るのか。自分の所有する刀剣に村正があれば、

みな取り捨てよ」と命じたという記述がある。

こうした話が広く世に伝えられ、将軍家に遠慮して家臣、諸大名らが

「村正」を用いなくなったとされており、妖刀伝説が生まれた。

逆に、そうした「徳川家に祟る」という言い伝えから

幕末期になってから、倒幕派の志士たちが好んで用いたともいわれ、

西郷隆盛も「村正」の両刃の短剣を鉄扇に仕込んで護身用にしたという。

( 綱淵謙錠 「村正  徳川家に祟った妖刀の作者」 別冊歴史読本『日本史謎の人物一〇八人』(1982)所収)

 

 

⑩松平郷・高月院山門脇にある、家康手植えと伝わる老木

 

 

様々な苦難を乗り切りながら、三河平定を果たした彼は、

永禄9年(1566)、清和源氏新田氏の一族得川氏の末裔と称して、

彼自身が創始した「徳川」姓を名乗ることを朝廷に許され、徳川家康となる。

それは、諸家乱立して混迷を極めた松平一族から

彼一人だけが唯一超越した存在となったことを誇示するという、

きわめて政治的な意味合いがあったであろう。

 

天正10年(1582)、織田信長が<本能寺の変>で斃れたあと、

明智光秀を「山崎の戦い」で打ち破った羽柴秀吉が

信長の実質的な後継者となるが、

家康は易々とは秀吉の軍門には下らず、<小牧・長久手の戦い>で

戦術的勝利を収めて、のちに「海道一の弓取り」と評された力量を示し、

豊臣政権№2の権勢を手にする。

つづく第二章で描かれるのは、この時代のことである。

 

家康は、秀吉の死後、<関ヶ原合戦>に勝利し、天下人となるのだが、

司馬遼太郎氏は、『覇王の家』の中で、

彼の個人的性格が、幕藩体制を築く上で少なからず作用し、

江戸時代を通じて今日に至るまで、日本人の民族的性格を

世界の普遍性への理解が届きにくいように矮小化・奇形化させたと指摘する。

彼の成育歴を考えれば、幼少期からの幾多の苦難がトラウマとなり、

司馬氏がいうところの、猜疑心が強く老獪で、冒険を好まず保守的という、

おおよそ英雄的な爽快さのない人格が形成されたのは無理からぬこと

であるが、それが日本人の国民性にまで影を落としたとなると、

その遠因となった<守山崩れ>が後世へ及ぼした影響は

計り知れないと考えるのはいささか飛躍のしすぎであろうか。

また、『三河物語』では松平清康を称揚する余り、

「あと少し生きていれば天下を取っていた」と書くが、

さすがにそれは眉唾としても、清康が生存していたら、

この地方の歴史は少なからず変わった可能性があり、

それによって日本史全体にどのような影響を及ぼしたか分からない。

歴史に「ⅰf 」は禁物だが、そうした夢想をしてしまう事件というのは、

そうあるものではない。

むろん、こうした考え方に捉われてしまうこと自体、

「松平中心史観」の呪縛が未だ解けていないということにも

なるのかもしれないが・・・。

 

 

いずれにせよ、様々な意味において、戦国史、

いや日本史の重要な転換点の一つとなったともいえる<守山崩れ>。

その真相は、城址の鬱蒼とした木立の中のように、

未だ光が届かぬ歴史の暗部にあるが、地元にそうした史跡があることを知り、

その保存とそれにまつわる物語の伝承に努めていく必要性を

あらためて認識した次第である。

ぜひ城址に足を運んで、その痕跡にふれ、壮大かつ豊饒な

歴史ロマンの世界に想いを巡らせていただければと願うばかりである。

 

 

 

追記

 

松平清康がこの世を去った12月5日に本章の最終回を迎えることは

当初からの構想通りであり、三度にわたる三河取材や

諸文献の読み直しなど、期限内になんとか果せたことに安堵している。

 

さきほど述べたように、続く第二章では、清康の孫・家康の時代、

守山の地を巻き込んで生起した<小牧・長久手の戦い>について描く。

美濃、伊勢、尾張という広い地域にまたがって戦われ、

秀吉と家康という戦国の雄が唯一対峙した壮大な合戦であり、

龍泉寺や小幡城、白山林など、第二尾張荘周辺のゆかりの地が登場する。

ご期待願いたい。

 

 

<次回「新章 両雄対峙~小牧・長久手合戦の舞台」へつづく>

 

text&photo 40papa

 

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コメント(2)

ヨンマルパパ at 2016-12-20 11:32:35

駄文お読みくださり恐縮です。

「守山崩れ」は、実に興味深い事件で、

私が「守山郷土史研究会」に加入する契機とも

なりました。謎が深く、再考したいと思いながら

果たせずにいまずが、「不羈の王」は知りませんでしたので

早速読みたいと思っています。

ありがとうございました。

管理者:ヨンマルパパ

前から気になってましたンで at 2016-12-17 10:53:42 from 124.213.42.231

はじめまして、面白く読ませてもらいました。
ところで、長澤規彦「不羈の王」読みました?
守山崩れが出てきます。この謎解き、私的にはアリかなと思いました。
それに、これ出版社が名古屋だし。
地元ネタが全国区とは羨ましいです。

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