社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘

愛知県名古屋市守山区にある『社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘』のブログ

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      リクナビ2018 

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ここのところ、何かと多忙で、本当に久々の更新である。

仕事自体も立て込んていたし、自宅でも、いろいろとやらなければならないことが多くて、

とてもこちらには手が回らない状態が続いていた。

リクナビの原稿も、一旦編集の手を止めているが、来週、二次補正作業が済み次第、

追加の原稿を書き足さねばらない。

果たして、3月1日のスタートに間に合うのだろうか。

正直、ちょっと自信がない・・・



さて、昨日は、来週月曜日に受験日が迫っている某国家試験の準備のため、

消化しきれていない公休を使って、自宅で猛勉強・・・のはずだったが、

前夜世界を駆け巡った大変なニュースが気になって、一日中テレビをつけっぱなしで、

あまり集中できなかった(+o+)


いうまでもなく、朝鮮民主主義人民共和国(いわゆる「北朝鮮」)の最高指導者である

金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の異母兄で、

我が国では一部で「まさお」と親しみを込めて呼ばれていた、

金正男(キム・ジョンナム)氏の暗殺事件である。

クアラルンプール国際空港で白昼に堂々と暗殺が実行されたことに驚いたのは

確かであるが、

その一方で、情勢を見れば、早晩こうしたことはあるだろうと何処かでは思っていたので、

その点では、あまり意外ではなかった

血を分けた兄弟に生まれながら、相互の存在が自身の安全保障上極めて危険になり、

文字通り骨肉相食むことになるというケースはよくあることであり、

古今東西の歴史を振り返れば、枚挙に暇がない。


話は少し飛ぶが、以前本ブログで、幕末史を語る上で欠かすことのできない

美濃高須四兄弟(徳川慶勝、一橋茂栄、松平容保、松平定敬)について触れた。

尾張徳川家の支藩であった美濃高須藩主・松平義建の子として生まれた彼等だったが、

たとえば、正室が生んだ嫡男で尾張藩を継いだ慶勝と、妾腹の子で桑名藩を継いだ

末弟の定敬(さだあき)とは、親子ほども年が離れており、それぞれ母親も違うから、

一般家庭の普通の兄弟のように一緒に遊びながら親しく育ったという風ではない。

そのように特異な生育環境にあった大名家の子弟は、一体どのような間柄だった

のだろう?

彼らに関する講演を熱田神宮に聴きに行った際、講師の方に以前から疑問に思っていた

その点について質問したことがあった。

私の質問に対し、それを示す記録は無いからはっきりしたことは分からないが、想像するに、

幕末期という政治的に極めて混沌とした時代にあって、最終的に頼れる(信じられる)のは

兄弟だけだったのではないか、といったニュアンスで講師の方が答えられたのが、

とても印象的であった。

尾張藩主だった慶勝は、開国問題を巡って大老井伊直弼と対立し、謹慎処分を受けたが、

その謹慎中、当時最新鋭の技術であった写真術に興味を持ち、独学で研究を重ね、

幕末維新期の風景や人物を自ら撮影した貴重な写真の多くが今日に伝えられている。

その中には、3人の弟たちを自らの手で写したものも含まれ、

また、明治11年、銀座の写真館で4人揃って撮影された集合写真は特に著名である。

幕末の激動期において、時に政治的立場を異にして対立したこともある彼ら兄弟だったが、

これらの写真を見ると、そうした恩讐を超えた温かみ溢れる兄弟間の情愛が、

なんとなく伝わってくる気がしてくるし、苛酷な運命に翻弄された弟たちに対する慶勝

の長兄としての心情や優しげな眼差しがほの見えてくる


一方、金王朝と呼ばれる特殊な国家のロイヤルファミリーとして生を享けた彼ら兄弟関係は、

百数十年前の大名家のそれと比べると明らかにいびつであり、殺伐として、人間らしさ、

血の通った感じが全くしない。

昨日の報道によれば、長男の正男氏と、三男の正恩委員長とは、

母違いであることもあり、最初から生活圏を異にしており、面識すら無かったという。

系図上は確かに金正日を父に持つ兄弟であることは間違いないが、

そこには肉親の情が生まれるような余地は全く無かったということである。

正男氏にとって北朝鮮国内唯一の後ろ盾であった実力者の張成沢氏が4年前に凄惨な

形で処刑されたことから、彼を支持する勢力は、国内には皆無であった。

その一方、中国にとって、正男氏は北朝鮮の現政権が崩壊した時の傀儡としてキープ

された大事な手駒であったという。

重要なのは、正男氏本人にその意図があったかどうかは別として、

その可能性がほんのわずかでもあった、ということである。

この「ほんのわずかな可能性があった」というだけで、

正恩委員長にとっての正男氏は、自身を脅かす危険な存在でしかなく、結果、

今回の事件に発展したのだろう。


余談ながら、昭和史を振り返ると、昭和天皇とすぐ下の弟宮である秩父宮の間には

確執があり、弟宮が兄帝に取って代わるという憶測が折に触れてまことしやかに

ささやかれた。現代においても、あたかもそれが真実であったかのように、

都市伝説的に語られ続けている。

私は秩父宮ご自身にそうした野心がおありだったとは思っていないが、問題はこうした話

が本人たちの意向を無視して独り歩きしてしまったということであり、

そのことが昭和史に少なからず影を落としていた可能性があるということだ。

海軍史研究家で大和ミュージアム館長の戸高一成氏がライフワークとして編纂を

取り組まれている『海軍反省会』(PHP)の第一巻には、

戦後の旧海軍将官の発言として、この件に触れている箇所がある。

快活でスポーツが得意な宮様として国民に親しまれ、陸軍軍人としても将兵たちの信望が

厚かった秩父宮を担ごうとする空気が陸軍内部にあり、実際に「2・26」事件の際、

決起将校の中にそれを期待した節がある首謀者の一人である安藤輝三陸軍大尉は、

かねてより秩父宮と親交があり、銃殺刑に処される際、他の将校の多くが「天皇陛下万歳」

を唱和する中、彼のみ「秩父宮殿下万歳」叫んだといわれている)のだが、

海軍部内にもそうした話が伝わっていたらしい。

こうした証言を読むと、その辺りの事情が昭和史における様々な歴史的決断に何らかの

影響を与えた可能性は無かったのか、という考えがつい頭をもたげてくるのである。


全くそんな気のない御本人たちにとっては迷惑千万な話だが、歴史という大きなうねりの中では、

個人の思いや事情は、時にかき消されてしまうものであり、

それが歴史というものが持つ冷厳な真実だ。

本人たちの好むと好まざるとに関わらず、歴史上の人物というのは、

生物学的には一人の人間であっても、社会的、政治的には一人の人間ではなく、

いわば一個の機関であり、彼らが属する集団の中で、自身の想いや願いは一顧だにされず、

その集団や時の流れが求めるように振る舞い、その中で生きなければならない苛酷さに

身を置いているのである。

今回の一件は、そうした非情な政治力学をまざまざと見せつけられる出来事であった

といえるのだが、

心配なのは、今後、この出来事が、我が国を含む東アジアの情勢にどのような影響を及ぼす

かということであり、重ねて我々が思わねばならないのは、世界は今、とても大きな歴史的

転換点に差し掛かっているという点であろう(北朝鮮側が正男氏の遺体引き取りを求めている

らしいが、何だか、19世紀末の朝鮮で閔氏政権打倒のクーデターを起こし、反逆者として

刺客に暗殺された金玉均が辿った悲惨な末路を思い出してしまった・・・)



久々の更新だったのだが、それにしても、まあなんと救いのない内容であることよ(^_^.)








    

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