社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘

愛知県名古屋市守山区にある『社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘』のブログ

07
2017-12

戦・場・道・険(完結編)

投稿時間 : 14時00分00秒

カテゴリー : 史跡をゆく

ジャンル : 日記


12月3日(日曜)の宿直明け公休の朝。


いつもように、史跡めぐりの虫が疼く・・・


「史跡をゆく」

晩秋の紅葉スペシャル!

本日は、「関ヶ原篇」の

完結編をお届けします。






宿直明けの日曜の朝、仕事を終えて、10時すぎに第二尾張荘を出て帰宅後、

あわただしく身仕度をととのえて、目指すは決戦の地、岐阜県不破郡関ケ原町。

一週間前、いささか残念な形で戦跡の踏査を中途で断念した私は、この一週間ずっと

そのことが心の奥底にひっかかっておりました。

朝、眠い目をこすりながら朝刊を取り込むために玄関の扉を開けると、

実にいい天気ではないか。

最後は雨に祟られた先週の日曜日とは天候がまるで違う。

「これはいかねばならない・・・」

そんな決意を秘めた私は、愛車ヨンマルを飛ばして、正午過ぎには名神高速・関ヶ原

インターを降りて、旧中山道付近を走っていました。

今回の目的地は、前回訪れることが出来なかった、近年の研究で合戦の主戦場だった

のではとの説が唱えられている不破郡関ヶ原町の山中(やまなか)・藤下(とうげ)地区

および松尾山付近です。

元々、前回の後編でいったん終えるつもりだった「史跡がゆく」関ヶ原篇ですが、

今回の踏査の成果をもとに、もう一回、「完結編」としてお送りしたいと思います。



というわけで、まいりましょう。

まずはコンビニに寄って腹ごしらえした後、松尾山方面(西)へ車を向けます。

途中、観光マップ上で「藤下」と示される信号交差点を左折し、南へ向かうと、

東海道新幹線高架の手前にある小高い丘の脇にこんな説明版が。

黒血川。

名前がおどろおどろしいですね。







前にも少し書きましたが、付近は、1600年9月15日に生起した「関ヶ原合戦」の

舞台であると同時に、672年7月に発生した「壬申の乱」の舞台でもあります。

この説明版の左側(北側)には丘へ登っていくための階段があったのですが、

この時点ではそれが何であるのか全く気が付かず。

私はここを早々と後にして、そこから北西方面の山中地区を巡ることに

しました。





向かったのは、大谷吉継の墓および陣址。

車一台がやっと通れるほどの山道を進んでいくと、ご覧のように

史跡周辺が整備工事中で、ここから奥へは入ることができませんでした。

前回紹介した、家康の陣址、桃配山と一緒ですね。

残念。

3月には工事が完了し、ふたたび訪れることができるようになるそうです。

ちなみに、ここへ向かう山道入り口から中山道を北西へいったところに、

常盤御前(源義経の生母)の墓があるのだそう。知らなかった。


ついで、もう一つの登り口を目指して、
山中の集落へ。



この左手(看板の←方向)には、松尾山を眺望できる場所があります。







山中地区は、古くは旧中山道が通り、近代には東海道本線、東海道新幹線、

国道21号が複雑に交差して走る交通の要衝。

このように古い家並みが残っていて風情があります。

この鳥居の風景を撮影している背後には、東海道本線の貨物列車が。





轟音を立てて貨物列車が通過後、踏切を渡ると、そこには若宮八幡宮があります。

ここも「壬申の乱」ゆかりの史跡でした。

そして、その930年後、大谷勢の陣所になったといわれていますが、

合戦時には大谷は関ヶ原方面へ進出していたのではないかという新説が最近

唱えられています。








この日も紅葉がきれいでした。

木漏れ日がまぶしい。

八幡宮の右手を昇っていくと・・・





記念撮影用の形部様のパネル。キッチュだなあ・・・





正面には、関ヶ原合戦のキーパーソンともいうべき、

小早川秀秋の陣があったとされる松尾山がとてもよく見えます。

ここから見るとかなりの距離ですが、それについてはのちほど。



大谷の陣址碑は、松尾山眺望地からすぐの場所にありました。

吉継の墓はここからさらに歩いた山の奥にあるのですが、

さきほど書いたように今は整備中でいくことが出来ません。

他日を期すことにします。



先ほど書きそびれましたが、ここには専用駐車場が整備されていました。



続いて、松尾山に登るため、その登り口を目指して東へ車を走らせます。

中山道から住宅地街の細い路地を抜けて行ったので、

ちょっと場所がわかりにくかったのですが、どうにか辿りついて駐車場に車を停め、

そこから山頂を目指します。

あとから思えば、さきほどの黒血川沿いの広域農道(戦国ロード)を道なりに南東方面へ

進んだ小早川の旗印(丸に違い鎌)が立っている場所が、目指す登り口駐車場の

入り口でした。







松尾山は標高が292m。比高は190mほどで、登るのはさほど大変ではありません。

山中には水の流れがいくつかあって、陣所にするにはもってこいの山だったかもしれません。

熊に出くわすとも限らないので、先日買ったポータブルスピーカーから大河ドラマのテーマ音楽

を流しながら登ります。

あまり人もおらず、とても静か。

暑からず寒からずの絶好の天候でした。

やっぱり来てよかった。

先週もこれくらい天候が良ければね。

尾根伝いに進むと、樹木が少なく視界が開けた場所があり、伊吹山が見えます。



東に目を向けると、関ヶ原古戦場付近も良く見えます。

実に周囲の眺望がいいですね。

ここが陣城として利用された理由がよくわかります。




落ち葉が敷き詰められたような登山道をブーツで踏みしめる。

この日は、レッドウイングの名品・アイリッシュセッター8875。

平成8年山形県で開催された老人福祉施設の全国大会に出張した帰り、

会津を周った後、東京に寄って上野アメ横にあった靴店で購入してから21年。

だいぶヘタってきましたが、まだまだ現役です。

オールソール交換して10年になりますので、.そろそろリペアを考えないとね。




約40分ほどで山頂まで到達。

小早川の旗が山頂に翻っています。

山中の眺望地や笹尾山からは、この旗が松尾山山頂の目印になっています。















ここは、上にあげた画像にもある様に、かつては松尾山城という山城で、

室町時代に築かれ、信長が活躍した天正年間まで存続していました。

繰り返しますが、この地域は、古代からの要衝地で、北国街道、中山道、伊勢街道

が交差しており、それら諸街道を扼する拠点として、この松尾山城は重要な場所だった

と思われます。

その当時からのものでしょうか、主郭と思われる山頂部を取り囲むように土塁の

痕跡が認められます。

自称「土塁」マニアとしては、うれしくなってしまう。

周囲には誰もおらず、スピーカーからyoutubeでTBSドラマ版『関ヶ原』のテーマ曲

を流してしまいました。

関ヶ原といったら、やはりこの曲でしょう!

小学生だった私を歴史と司馬作品好きにした(ちょっと人生を狂わせた)きっかけの

一つになったTBSドラマ『関ヶ原』。

あの名作歴史ドラマで描かれた合戦への経緯も合戦の様相も各武将の有名な

逸話も、史実とは大幅にかけ離れたものであることが近年明らかになりつつあるのは、

すでに繰り返し述べてきたとおりです。

それでもあのドラマが名作であることには変わりありません。

初冬の松尾山山頂に流れる山本直純の名スコア。

勇壮なブラスによって奏でられるこの名曲が何だか物悲しく響き、

古き「関ヶ原合戦物語」への挽歌のように私には思えてなりませんでした。










山頂に設置された三角点。



山頂から北東の関ヶ原古戦場方面を望む。



上はスマホの画像ですが、持って行った一眼レフの望遠レンズで撮ったのがこちらです。



上は、石田三成陣所址とされている笹尾山。

下は東軍側の黒田長政と竹中重門の陣址です。

荒木村重の反乱によって黒田官兵衛が有岡城に幽閉され、信長から裏切りを

疑われた際に、竹中半兵衛の機転で命を救われた松寿丸こと黒田長政は、

半兵衛の子である重門とは昵懇の間柄でした。重門はのち、

豊臣秀吉の伝記である『豊鑑(とよかがみ)』を書き残したことでも知られます。



こうして実際に立ってみると、関ヶ原からはかなり距離がある様に感じられ、

小早川の裏切りを誘うために徳川方が鉄砲と打ちかけたという話(いわゆる「問鉄砲」)

が実に荒唐無稽なものに思えてきます。

また、大谷吉継が小早川への備えのために山中に陣したというのも、この距離感を考える

とありえないように思えますし、小早川勢も松尾山から一気に攻め降りたのではなく、

一旦別の場所に陣を移し、そこから大谷勢に襲い掛かったとする白峰旬先生の見解には

納得がいきます。

やはり、合戦当時の各武将たちの布陣状況は、ゼロベースから見直すべきでしょうね。



何はともあれ、長年訪れたいと思ってきた松尾山へ来ることが出来て大感激。

山頂で20分ほど本合戦についてあれこれ考えをめぐらせたあと、山を下って、

藤下地区の陣所跡を周ります。





松尾山の北東、東海道新幹線と名神高速に挟まれたエリアが藤下地区。

付近を歩き回ると、このように矢竹が群生していることが分かります。

この矢竹がかつての陣城の遺構を物語る証拠だと、東海古城研究会の

高橋陽介氏は主張されています。

矢竹は矢の材料として利用できることから、武家の庭に好んで植えられた

といわれています。石田三成もその屋敷内に矢竹を植えていたという逸話がありますが、

前回も書いたように、本合戦のために植えられたものとは思われず、

となると、壬申の乱以来ここに植わっているものなのでしょうか??



南に歩いて名神高速の高架下を潜ると、そこには脇坂(淡路守)安治の陣跡が。

賤ヶ岳の七本槍の一人であり、昨年、上司にあたる秀吉からの度重なる訓令の書状が

見つかったことで話題になったのが記憶に新しい戦国武将です。











これらの石碑は日露戦争終結後の明治39年8月に建立されていました。

戦勝記念の意味合いで過去の戦跡を顕彰したものでしょうか。

ただし、すでに述べている通り、各部将の陣所に比定された場所が本当にそうで

あるかは、確かな史料での裏付けが出来ません。

通説では小早川の寝返りに呼応し、松尾山の下に布陣していた脇坂もにわかに

東軍に寝返ったとされていますが、高橋陽介氏は、脇坂は合戦時、京極高次の居城

である大津城に居て、最初から東軍に与していたと主張しています。

ただ、この場所は、削平や土塁の痕跡が認められ、誰のものだったかはわかりませんが、

当時陣所として使われたことだけは間違いなさそうです。







ついで、中山道方面へ戻り、福島正則の陣所跡に寄った後、今回のもうひとつの

メインイベント、高橋陽介氏が三成の本当の陣所跡と主張されている自害峯へ。





車載ナビでは場所がわからず、スマホのナビを使って探したのですが、

付近地形や道路、鉄道が複雑に交差していて、目指すべき場所が今一つ

わかりづらい。

一旦、ヨンマルを脇道に停めて、徒歩で向かうことに。

こういうとき、わが愛車ヨンマルはとても頼もしい。

悪路をものともせず、ショートホイールベースであることもあって、狭い山道でも

取り回しがしやすい。

こうした立地での史跡めぐりには最高の相棒です。



ぐるぐると歩き回り、畑とたんぼのあぜ道を踏破して辿りついたのは、

なんと最初に紹介した「黒地川」の説明版があった場所でした。

そして、あの階段こそが自害峯へ至る道であり、登っていくと、下の説明板が

立っていました。

どうせなら、下の黒血川のところにも示しておいてほしかった(^_^.)

この三本杉の周囲には柵が巡っており、これ以上は山中を見て回ることは

不可能。





しかし私は、前回取り上げたBS TBS『諸説あり!』で紹介された陣所跡とされる

場所をどうしても見たかったので、一旦クルマに戻り、「自害峯の三本杉」の北側に

移動してみると、中山道沿いにこのような看板がありました。



先刻クルマでここを通った時はまったく気が付かなかった(^_^.)

帰宅後、前回「関ヶ原歴史民俗資料館」で貰ってきた壬申の乱史跡めぐりマップ↓を

見返してみると、ちゃんと「自害峯の三本杉」の場所が明記されていました。



このマップ、今回も持って行ったんですけど、事前の確認不十分でしたね。

迂闊だなあ、俺。



案内板のあった場所のすぐ近くに車を停めて、脇にあった道を登っていきます。

ヨンマルの背後が、自害峯です。



そうしたら・・・


高橋氏が主張するように、削平地、土塁、空堀、切岸らしき痕跡が確かに

ありました。





傾斜が急で切岸に見えなくもありません。

これが松尾山の小早川への備えであるかどうかは、ちょっと私には判断が

つきませんでしたが。



実はこの撮影場所の背後(南側)には、東海道新幹線が通っており、軌道構内への

侵入防止のためのフェンスで囲われていました。

先ほどの三本杉はこの左手にあります。

線路の南側にもおなじような高さの丘があり、これはもともと自害峯と尾根続きで、

新幹線建設によって分断されたのでしょうか。

それにしても、この自害峯が大友皇子(弘文天皇)の埋葬地の候補地のひとつとするなら、

えらく騒がしい場所で眠ってみえるものですね。

そんな思いにふと囚われたとき、背後を轟音とともに700系「のぞみ」が猛スピードで

駆け抜けていきました。









確かに、ここ自害峯には陣城跡らしい痕跡が認められました。

興奮冷めやらぬままに降りてきて、こうして改めて周囲を見回すと、街道沿いの土壇状の

場所(この上は畑になっていました)も、とても意味ありげに見えます。



ここを三成の陣所跡と考えた高橋氏の主張は、かなり確度の高いもの

であるように私には思えました。

切通しの様になったこの街道沿いの地形も、実に意味ありげです。

両側から進撃する敵兵を狙撃できる地形です(西南戦争の田原坂みたい)。






今回の史跡踏査はこれにて終了。

この時点で、午後4時半すこし前、すでに太陽は西方の山並みの向こうへ

沈み行こうとしています。

半日の史跡踏査は、宿直明けだったので少し疲れましたが、これは実に心地よい

疲労感。

前日から入浴をしていないこともあって、日帰り温泉でひとっ風呂浴びて帰ろうと思い、

前から気になっていた揖斐郡池田町の池田温泉へ向かうことに。

場所は関ヶ原の北東、ここからは40分くらいの道のりです。

池田町は、杭瀬川(関ヶ原合戦の前哨戦「杭瀬川の戦い」で歴史に名を残す。ただし

この戦闘の存在には近年疑義が出されている)の上流にあるのですね。

着いたのは午後5時過ぎ。

すでにすっかり日は落ちて、ふと東の空を見ると、巨大な満月が浮かんでいて感激

しました。


ここの泉質は純重曹泉というもので、湯はヌメヌメ。肌にとても良さそう。

すっかり史跡めぐりの汗を落としてから、服を着替えて、大垣方面へ南下。

前の週、濡れネズミだったので行かれなかった行きつけのアメカジショップ・

スピリッツさんに寄り道。

オーナーにコーヒーを淹れていただき、それを飲みながら、アメカジとは関係ない

夜のお酒談義が実に愉しかった。

結局なんだかんだで、帰宅したの午後8時半。

カミさんには松尾山山頂からLineを送ったきりだったので、夜になってから所在確認

のためのLineが鬼のように送られてきてました。

心配かけてスマン。

2週にわたって関ケ原付近の史跡を踏査しましたが、地図上でしかわからない

各史跡の位置関係、高低差、距離感がよくつかめて、とても有意義でしたし、

最新研究で示されている新説についても、現地に行ってみると自分なりに納得できる

ところがかなりありました。

歴史は史料研究だけでなく、現地を自分の足で踏むことが大切。

これでこの付近についてはそれなりの土地勘が出来たので、来春、また自転車で来ようと

計画しています。

それまでに、今回紹介した文献に加え、乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書)

桐野作人『関ヶ原 島津退き口』(学研M文庫)などの関連書籍も十分読み込み、

万全の知識で臨みたいものです。

尾張地方ゆかりの「小牧・長久手合戦」の戦跡同様、この地方にとっては身近な戦跡

であり、関ケ原町は町全体が古戦場というスタンスで、史跡保存への意識が高く、

レンタサイクルなど観光のための仕掛けを様々に整備しておられます。

松尾山なども含めて、トレッキングするにはもってこいの規模ですし、東海道本線、

名神高速、国道21号が通っていてアクセスもとても良い。

気候の良い時期に、ぜひ出かけてみてください。




これにて、「史跡をゆく」関ヶ原篇は一応完結。

最後までお読みくださり、まことにありがとうございました。




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