社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘

愛知県名古屋市守山区にある『社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘』のブログ

02
2017-12

戦・場・道・険(後編)

投稿時間 : 22時00分00秒

カテゴリー : 史跡をゆく

ジャンル : 日記


「史跡をゆく」

晩秋の紅葉スペシャル!

第一弾は関ヶ原篇!!

本日は、後編をお届けします。




美濃赤坂・安楽寺にある岡山本陣跡をめぐったのち、北上して旧中山道へ戻り、

関ヶ原方面へ。

途中、昼飯(ひるい)という集落にある巨大な前方後円墳に寄り道。

この昼飯は家内の大学時代の親友の嫁ぎ先なので、私もときどき一緒にお邪魔して

おります。その際、ここにも来たことがあり、登るのはこれで二度目。

周囲の家並が低く、ここからの眺望もまた素晴らしい。

南西にはこれから目指す南宮山。

北西には山頂付近に白く雪を被った伊吹山。

そして、東にはさきほどの美濃赤坂・岡山。








当時も、このように見えたはずで、ここは旧中山道からすぐ南の場所にありますから、

物見の兵が登って索敵を行ったかもしれません。

索敵のために少しでも高い場所へ登るというのは、航空機の無い時代の陸戦ではよく

あることでした。

特にこうした古墳は結構利用されていて、小牧・長久手合戦の際にも、

尾張地方に点在する古墳の多くが、物見のために使われたり、城砦に転用された例は

数多いのです。


ここからはひたすら旧中山道を西進。

ところが、次の垂井宿に向かうにつれ、だんだんペダルが重く感じてくる。

つまり、大垣から関ヶ原方面へ陸路で進む場合、ゆるやかな登り坂がずっと続く

いうことが、私の「弱虫ペダル」を通して身体に伝わってくるのです。

友人は乗り慣れているので苦にならないのですが、私の場合は日頃の鍛錬不足と

空腹も手伝って(すでに12時をまわっていた)、だんだん今回の旅が無謀なものの

ように思えてきて、心の奥底から後悔の念がふつふつと湧いておりました(^_^.)

まあ、自分の体力を度外視したビール片手の机上プランなんて、所詮こんなもの。

現実を無視した無謀な作戦を立てて、おびただしい将兵に無益な死を強いた

昭和陸軍の参謀たちの轍を踏んだような感じですね(+o+)



垂井宿は以前、守山郷土史研究会で訪れたことがありますから、これで2回目。

その際、行くことが出来なかった南宮大社に詣でたいとかねてから思っており、

今回実現できました。

これが本殿。

この日は11月最後の日曜日ということもあって、七五三の家族連れが多かったです。




山門の向こうに伊吹山が見えます。



ここ、南宮大社は、美濃国の一之宮であり、律令時代の国府があった場所にほど近く、

古い歴史と伝統を持つお社で、主祭神は、天照大神の兄である金山彦命。

関ヶ原合戦の戦火で建物が焼失、江戸時代に入って三代将軍家光の時代に再建された

のが現在の姿です。

これには、家光の乳母(近年、九州大学・福田千鶴教授により生母説が唱えられている)

である、あの春日局(美濃出身)の意向が大きく関わっているといいます。

先の大戦で戦災に遭わなかったこともあってか、隣接する神宮寺も含めて、

建物の残り具合がとてもよく、まさに重要文化財の宝庫。

おなじ一之宮である尾張の真清田(ますみだ)神社(一宮市。夏の七夕祭りで有名)には

古い建造物が全く現存していないこともあって、ここの風情は実にすばらしいと感じました。

ちなみに、こちらでも御朱印をいただいてきました。



参道にある道標。

「右 いせ」と書いてあるのがわかりますか?




そして、この地には、大垣城の後詰(後方支援)として、毛利勢が布陣。

今回は時間の関係で訪れませんでしたが、山中には毛利秀元と安国寺恵瓊の

陣跡が残っています(ここは、軽登山装備が無いと登るのは無理そうですね)。

彼等の陣より更に北西に吉川広家の陣があり、ここが毛利軍の先陣でした。

毛利秀元は毛利元就の四男・穂井田元清の次男で、このときは大坂城にあって

秀頼を庇護していた毛利家当主・輝元の名代という位置づけでこの地まで出陣して

いました。

彼を補佐する安国寺恵瓊は毛利の外交僧であり、本能寺の変のはるか前に

信長の凋落と秀吉の台頭を予言したことで知られる人物です。

毛利の両川(りょうせん)といわれた毛利元就の次男・吉川元春と元就の三男・

小早川隆景が世を去ったのち、毛利家内はまとまりを欠くようになり、

安国寺と元春の息子の広家は外交方針をめぐって対立していたといわれています。

前編で触れたように、総勢1万5千ともいわれる毛利勢は、大垣城を支援するため、

この南宮山全体に陣を布きます。

しかし、思いのほか早く美濃赤坂に家康本隊が着陣したため、広家が単独で家康に

降参し、これによって、家康は大垣城の後詰であった毛利軍を無力化しました。

通説では、関ヶ原合戦において、毛利軍は三成からの度重なる出陣要請を無視して

山から下りず、毛利秀元は先陣の広家が動かないのに自分たちが打って出ることは

軍法上できないため、窮した挙句、「今兵たちに弁当を食べさせている」と石田方の

使者にウソの返答をしたことから、後年「宰相殿の空弁当」と呼ばれたとの逸話が

知られますが、実際の事情はどうだったのでしょうか。


大垣城の戦略的優位性が崩れた後、三成たちは城を出て、関ヶ原方面へ移動。

これまでは、三成の居城である佐和山城や秀頼が居る大坂城方面へ向かう気配を

見せる東軍を野戦で迎え撃つため先回りしたとされてきましたが、

白峰旬・別府大学教授は小早秀秋の裏切りがはっきりしたため、山中に布陣する

大谷吉継救援のため、大垣城を出たと考えられています。

今後これについては更に議論が深められていくことでしょう。



南宮大社を後にしたわれわれは、国道21号を関ヶ原方面へ。

付近には飲食店がなかなか無く、峠の上でようやく見つけた台湾料理店に入って、

ちょっと遅めの昼食を。空腹と疲労もあって、とっても旨かったです。

ココからはペースを上げたいと思い、今回愛車に装備したスピーカ-で景気づけ?の

音楽を流しながら、西へ西へ。

途中、桃配山(ももくばりやま)の家康陣地址の下を通過。

ところが残念なことに、陣地址周囲の環境整備のため、登ることができませんでした。

残念無念。

ただ、最近では、家康は岡山に居て、合戦の際にはここまで進出していなかった

のではないかという見方もあるそうです。

この桃配山の名は、「壬申の乱」の際、勝者となった大海人皇子(のちの天武天皇)が

結集した将兵たちへの激励のために山桃を配った故事に因むもので、それを知っている

家康が験を担いでここに陣を進めたといわれていますが、もし、先ほどの仮説が事実と

するなら、これも家康神格化の過程でこの桃配山布陣の話が後世創作された可能性も

ありますね。




そして、「関ヶ原町歴史民俗資料館」を見学した後、いよいよ決戦の地へ。



大垣城を出発してから、すでに5時間近くが経過し、私的にはすでに体力の限界。

そして、笹尾山の石田三成陣地址に到着した際には、すっかり日が陰り、雲行きも

だいぶ怪しくなっていました。



あの有名な「大一大吉大万」の旗印が古戦場跡をたなびく秋風にへんぽんと

翻っています。








実は近年の研究では、一次史料にそれを示す記述が無いことから、

石田三成の笹尾山布陣が否定されつつあるのです。

前編で紹介した『歴史群像10月号』所収・白峰旬『通説打破!関ヶ原合戦の真実』

によれば、現地において諸将の陣跡とされている場所も、明治25年に地元の史家・

神谷道一氏が出版した『関原合戦図志』を参考に岐阜県の役人が参加して決めていった

という話が「関ヶ原笹尾山交流館スタッフブログ」の記事によって明らかにされたといい、

また、今日定説化してしまっている明治陸軍が編纂した『日本戦史』所収「關原本戦之圖」

を元にした東西両軍の布陣図は、実際とは相当異なるものであることがわかってきています。

従来、西軍は南北に長大な鶴翼の陣形をとって、翼で包み込むように東軍を迎え撃った

としており、明治陸軍が陸軍大学校における参謀育成のためにプロシャ陸軍から招聘した

クレメンス・ヤコブ・メッケル少佐が関ヶ原の布陣図を一目見て、即座に「西軍の勝ち」といった

話は、司馬遼太郎さんがその著書で繰り返し書いており、あまりに有名です。

純軍事的に見ればその通りかもしれないのですが、実際は東軍が勝ったと聞いて納得

できなかったメッケルは教え子の参謀将校たちの説明で、小早川秀秋の裏切りなどの

事情を知り、「政略が働いたなら別だ」と納得したというのです(ただし、この話、出典が

不明なのだそうです)。

しかし、すでに繰りかえし述べているように、プロシャ陸軍きっての俊英といわれたメッケル

が目にした布陣図も日本陸軍の若き参謀将校たちから聞かされた戦闘経過も、

史実とは相当異なっていることが徐々に明らかになりつつあります。

まさにコペルニクス的転回というべきか、関ヶ原合戦のこれまでの常識は、

近年の歴史研究の進展によって、根底から大きく覆されたといっても過言ではありません。

そしてこのことは、地元・守山区ゆかりの「小牧・長久手の戦い」についても同様に

当てはまるのではないか。

かの戦役も、江戸期に蔓延した家康神格化の影響で相当ゆがめられた形で史書に

書き残されたことは、まず疑いが無いからです。

関ヶ原合戦同様、今一度定説を見直し、語り直すべき時が来ているのかもしれません。





白峰教授は、前掲『通説打破!関ヶ原合戦の真実』において、

三成たちは、ここより南、松尾山々麓の中山道沿いにある山中(やまなか)と呼ばれる

狭いエリアに集中して布陣しており、ここを一気に東軍に攻められて、(白峰教授の表現を

借りれば「ドミノ倒しのように」)あっけなく壊乱。

また、かつては山中に布陣して松尾山の小早川秀秋の裏切りを食い止めようとした

とされてきた三成の盟友・大谷吉継は、三成たちの軍勢が壊乱するよりも前に、

山中より東の関ヶ原付近に進出したところを徳川本隊と衝突、さらに味方だと認識して

いた小早川勢が松尾山を下って背後の丘から攻めかかり大谷勢を挟撃、吉継は

本合戦に参加した有力武将のうちで唯一の討死を遂げてしまったのだ、

と説明しています。


とはいっても、私たちのような古くからの歴史ファンも、三成様、形部様と黄色い歓声

をあげる?歴女のみなさんにとっても、昔から馴染み深いこの笹尾山は聖地のような場所。

この日もそんなお嬢さんたちがたくさん、この本陣跡をいとおしそうに訪ねていました。

彼女たちが、最新の研究成果について、どこまでご存知かは分かりませんが、

仮に近い将来、本合戦の布陣図が大きく書き換えられたとき、

ここ以外に彼女たちの想いを受けとめてくれる聖地が果たして現れるのでしょうか?







東海古城研究会の高橋陽介氏は、『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を名古屋の

ブイツーソリューションという出版社から自費出版し、三成の陣跡について考察されて

いるそうです。

同書は、2015年11月に初版が発行され、2017年に改訂版が出されていますが、

私はまだ同書のいずれの版も目にしておらず、その内容について詳しいことは

わからないのですが、初版本は、白峰教授によって、史料の誤読、時制の取り違え、

拡大解釈を含む内容から先行研究の取り扱いに関する執筆手法に至るまで相当

手厳しく批判されており(『関ヶ原戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する』。

ネット上で読めます)、改訂版がそれをふまえて訂正されているかは不明ですが、

その高橋氏が先日、BSTBSで放送された歴史番組『諸説あり!』(毎週土曜日22時~)

出演された際、三成の陣所跡について自説を述べておられました。

まず、尾張衆として参戦した生駒利豊(私の地元にある小折城城主)の書状に記された

戦場の場所「たうげ」を従来の「峠」ではなく、山中(やまなか)付近にある藤下(とうげ)

という地名のことだと考え、さらに、「壬申の乱」で敗死した大友皇子(弘文天皇)の首が

埋葬されたという伝承がある「自害峯」と呼ばれる丘陵こそが三成の陣所跡であると

主張されたのです

ちなみに、「自害峯」の根拠となるのが、今回の旅の出発点である大垣城に騎馬像

がある戸田氏鉄が書状の中で三成の陣所だったとする「自害が岡」という記述であり、

高橋氏はそれを現地にある「自害峯」に比定したというわけです。

番組では実際に木々が生い茂るこの自害峯にカメラが入り、周囲の様子を紹介して

いましたが、高橋氏によれば、自害峯には陣所だった痕跡が削平地あるいは土塁や

切岸として残っているといい、また、藤下地区には本来は自生しない矢竹が植わって

いることから、人為的に植えられたものとし、これを当時の陣城の遺構である証拠と

主張されていました。

しかし、当時の戦況の推移からみて、合戦前夜に慌ただしく大垣城からこの地に

移動した三成たちに、短時間でそこまで大規模な陣地構築が出来たとは思えず、

ましてや矢竹まで用意周到に植えることが本当にできたのかどうか。

たしかに、凄まじいスピードで築城を行うことが出来た当時の土木技術を考慮すると、

短時間で陣地構築した可能性がゼロとはいいきれず、こうした戦局の推移を

想定してあらかじめこの場所を陣所に定め、陣地構築していたかもしれませんし、

また、街道を扼するために築かれた元々古くからあった陣城だった可能性も捨てきれ

ません

これについては、今後大いに議論されるべき部分でありましょう。





笹尾山を訪れたあと、一旦は山中・藤下方面を目指したのですが、国道や鉄道の

高架などに阻まれて道が良くわからず、また、すでに周囲はかなり暗くなり始めて

おり、これ以上の史跡踏査は時間切れで断念することとし、

大垣まで元来た道を戻ることにしました。

負け戦のときほど、迅速果断な撤退の決断は重要です。

さらに、失意のわれわれをあざ笑うかのように、無情にも雨が降り始め、

次第に雨脚が強くなっていきます。

大垣までつづく国道は、トラックやバスなどの大型車両がつぎつぎに通行し、

その脇を自転車で走るのは結構恐ろしい。

ましてやこの雨ですから、ゴアテックスのパーカーを着ていても、体温を奪われ、

体力も相当に消耗してきます。

垂井宿まで戻ったところで、友人が車を取りに大垣まで先行することとなり、

彼はペダルを漕ぐピッチを上げ、あっという間に見えなくなりました。

心細い私は、スピーカーから『真田丸』や『軍師官兵衛』のサントラを流して勇気を鼓舞し、

なんとか弱虫ペダルを漕ぎ続けますが、

逆にだんだん負け戦の戦場から落ちていく敗残兵の気分になってきます(+o+)

合戦前夜、大垣城から関ヶ原方面へ移動する際も氷雨が降る中だったというし、

当初の戦略が狂い、大垣城を出て野戦を挑もうとした失意の三成たちも、

向かう方向は正反対ですが、こんなみじめな気分だったのでしょうか。




それでもなんとかペダルを漕ぎ続けて、すっかり日が落ちた午後5時、

スタート地点であり、結果的に友人との合流ポイントになった大垣城に無事

「とうちゃこ」(^○^)

幻想的にライトアップされた白亜の天守が素敵でした。

今回の関ヶ原合戦の戦跡をめぐる「こころ旅」、走行距離は往復で50km。

あらためて、火野正平は凄いね。



でも、自分の脚でペダルを漕いで大垣から関ヶ原まで走ったことは、途中大いに

後悔したとはいえ、結果的にはとても有意義でした。

クルマだけではわからない土地の高低差が、身体を通してリアルに実感できました。

これは書斎で本を読んでいるだけでは決してわからないことで、

ドラマで描かれがちな平原での戦闘ではなく、凹凸の激しい複雑な地形での戦闘

であったことがよくわかりました。

近いうちに、今回訪れることができなかった山中方面や松尾山を回りたいと

念じております。

むろん、今度は無理をせず、関ヶ原まではクルマでね(^_^.)




※12月3日 8時 一部加筆修正



ここからは、お・ま・け



疲れ切った身体を癒すのは、やっぱりおいしい肉でしょう(^○^)

地元まで戻った後、私の行きつけのお店で、ビールをたらふく飲みながら、

ホルモンをつつきます。

まさに至福のときですねえ。



この日消費したカロリー以上の生ビールと肉を摂取し、元の木阿弥じゃ。

でも、いいのよこれが。

「禁断のアレ」も久しぶりにいただけて、もう最高でしたヽ(^o^)丿



ちなみにコチラのホルモン屋さん、この日が開店五周年。おめでとう!!

常連さんたちが一斗樽の日本酒を持ってきていて、この日居合わせた我々にも

空ビンに詰めたその美味しい縁起物のお酒をおすそ分けしていただけました。

ありがとうございました、また来ますね!!



そんなわけで(どんなわけで?)、次回は、「史跡をゆく」紅葉スペシャル・京都編で

お会いしましょう!!


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