社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘

愛知県名古屋市守山区にある『社会福祉法人 愛知玉葉会 第二尾張荘』のブログ

27
2017-07

柳・橋・酒・会

投稿時間 : 14時00分00秒

カテゴリー : ラーメンブログ

ジャンル : 日記


まるで、アジアのどこかの国みたいな無国籍感・・・


こういう非日常性がイイのよ。




全国的に梅雨が明けたような明けてないような不安定ではっきりしない天候が続いて

いますが、それにしても毎日蒸し暑いですね。いかにも名古屋らしい暑さです。

そんな暑い夏には美味しい生ビールが呑みたい!ということで、第二尾張荘恒例の

ビアガーデン企画第一弾が今年も開催!

今回は管理栄養士・マングローブ女史の仕切りで、会場は名古屋駅からほど近く、

名古屋市民の台所として知られる柳橋中央市場の屋上に夏季限定で営業されている

「市場直結 柳橋ビアガーデン」。

会場内は熱気ムンムンで、扇子が手放せません(「不良中年」って・・・)。

こりゃ、生ビールが進むぞ(^○^)





写真には写っていませんが、テントの切れ目からは今や名古屋駅エリアの殷賑ぶりを象徴する

数多くの高層ビル群がわれわれ酔客を睥睨しています。

名駅エリアは守山からの仕事帰りにはちと遠い(私は通勤経路なので逆にありがたいけど)

ですが、こうした非日常的シチュエーションに、気分はアゲアゲです。




入場料はひとり3,900円。

これで基本的に飲み放題、食べ放題なのですが、

追加購入用の食材も豊富に用意され、それを買うためのチケット800円分がついてきます。


いきなりファイア!!



こちらもファイア!!




コレらがチケットで追加した食材。

柳橋市場直営ということもあって、魚介類も豊富。この日は気温の関係で無かったけれど、

お刺身なんかもメニューにありました。そのほかにはステーキ肉なんかも。

画像は、アユにサザエ。

マングローブ女史の出身地・奄美大島産の海ブドウも美味でした!!




またまたファイア!




私自身ココに来るのは初めてだったんですが、市場界隈独特の雰囲気といい、

市場直営ならではの食材の豊富さといい、もう大満足。

マングローブ女史がおススメするのも納得です。

次にビアガーデンに行くなら、迷わずここにします!!



そして、翌日公休だった私は他のメンバーと分かれて、一人ゆっくり〆のラーメン。

たまたま店前を通りかかった名古屋を代表する名店「江南」に入りました。

ココのラーメン、久しぶりにいただきましたが、相変わらずあっさりしていて優しい味。

さんざん飲み食いした後もスルッと胃袋に入っていきます。

若いころはもっとへヴィなラーメンが好きだったけれど、今は年齢的にはこれくらいが

ちょうどいい。

ご馳走様でした。美味しかったです!!





夏はまだまだコレからが本番。

お酒も食事もタップリと楽しんで、この暑さを乗り切っていきたいですね!
























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26
2017-07

旧・車・退・役

投稿時間 : 16時00分00秒





昨日の火曜日は久々の平日休みだったので、

夏休みが始まった小学2年生の息子をどこかへ連れて行ってやることになり、

かねてから私が行きたかった名古屋市博物館で今夏開催中の「ゴジラ展」へ。

まもなくラストを迎える『仮面ライダーエグゼイド』、それに『宇宙戦隊キュウレンジャー』

が好きな息子ですが、ゴジラにはあまり興味が無く、気乗り薄。でも、こんな機会はめった

に無いからと、引きずるように連れて行きました(^_^.)

金山までは、午後から邦和スポーツセンターでスケートの練習がある小6の娘と一緒に行き、

3人で駅ビル内のイタリアンレストランでランチした後、我々は地下鉄で桜山へ。

そしたらば、何とこの日博物館は休館。ええ、月曜休みじゃないの??

よく見ると、第四火曜日は休館と書いてある。確かにこの日は第四火曜だね。

夏休み中くらい開館していてほしかったなあ・・・

私に対する息子の視線が冷たい・・・

ちゃんと確かめなかったパパが悪いのだよ。息子よ、スマン。

気を取り直して大須へ向かい、息子はいつものおもちゃ屋さんでエグゼイドの変身アイテム

「ガシャット」を購入。

その足でこの日開館していた「名古屋市科学館」へ向かう途中、突如降り始めたゲリラ豪雨に

遭遇。とても笠さしで歩ける状態ではなく、しばらく通りがかりのインテリアショップ雨宿り。

いやあ、さんざんな休日のお出かけになりました(^_^.)




さて、本日は本当に久しぶりの新しい公用車・ダイハツのハイゼットが納入される日。

むろん、車椅子固定機能が付いた送迎用にも使える便利な一台で、事務所スタッフは興味津々。

固定方法やスロープ上の移動方法を皆で確認しています。








その一方、ひっそりと退役するクルマも・・・




それが、左隣に佇むスズキのワゴンR。

介護保険制度2年目の2001年夏にやってきた私にとって想い出深い一台。

16年目にしての引退です。本当にご苦労様。

当時短期入所担当の生活相談員だった私の脚として大活躍し、以後歴代担当者に

愛されてきました。







介護保険スタート当時の私の余りの激務振りと送迎の大変さをさすがに見かねて、

普段とてもケチな(失礼!)当時の施設長が「走れりゃイイ」というオーダーでリースしてくれた

クルマでしたが、そのせいか、何とラジオすらついていないという潔さ。

それでも、当時使っていた公用車の中では、取り回しの良さ、運転のしやすさは抜群で、

短期入所担当者にとって手放せない一台となっていました。

しかし、経年によってボデーはヘタリ、足回りも怪しくなって、さんざんこれまで引っ張ってきた

再リースはさすがにもう難しいということになり、今回新車への更新となったわけです。


様々な想い出が染みついたワゴンR。

それらが、まるで走馬灯のように蘇ります。

とある夏の日、認知症で落ち着かれず介護フロアから匙を投げられた男性利用者を乗せて、

その方が落ち着かれるまで名古屋市内をグルグルドライブしたこともあったなあ。

新規利用者の受け入れ時も、サービス担当者会議参加も、クレーム対応で謝罪に向かう時も、

いつもこのワゴンRが傍に居てくれました。

リース車両としての寿命はもう尽きてしまったけれど、手を入れればまだまだ走れるはず。

東南アジアあたりで、元気に第二の人生を送ってほしいと思います。

最後は、現短期入所担当相談員のS嬢と手を振って見送りました。

「老兵は死なず ただ消えゆくのみ」といったところか。



ありがとう、ワゴンR。

さらば、ワゴンR。



























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24
2017-07



7月5日から6日にかけて発生した九州北部大豪雨は、福岡県・大分県各所において甚大な

被害をもたらし、今なお行方不明となっている方々の捜索が懸命に続けられている。

まずはこの場をお借りして、犠牲になられた方々のご冥福を心より祈りたい。

さらに被害に遭われ、過酷な避難生活を送られている方々に対しお見舞いをもうしあげると共に、

この猛暑の中、被災地にて不眠不休で捜索・復旧作業や支援活動に尽力されている

警察・消防・自衛隊・行政の方たちに対しても、敬意の気持ちを表したいと思う。





以前書いたように、この記事の元になっている昨年6月の九州への旅は、もともと求人関係の

主張が先に決まっており、その帰路に公休を使って少年期から念願の熊本城と田原坂に寄って

くるつもりだった。

しかし、4月に発生した熊本地震で状況が一変し、被災地の状況視察とボランティア活動が

目的に加わることになった。

熊本入りしたこの日、新幹線を降りてすぐにレンタカーを借りて田原坂方面へ向かい、

昼過ぎまで当地付近の戦跡を巡り、午後はもっとも被害の大きかった益城町の住宅街を踏査。

夕方に水前寺公園近くの宿に荷物を下ろしてから市内中心部へ移動、夕暮の中に浮かぶ

熊本城の痛々しい被害状況を目の当たりにするという慌ただしさだった。

このように、時系列的には最初に田原坂周辺の戦跡を回ったのだが、先回からの流れで西南

戦争の戦局について触れていこうとすると、どうしても先に熊本城について触れねばならない。

よってこのまま、西南戦争とその重要な舞台の一つとなった熊本城、そして、今回の地震被害に

ついて述べていくことにしたい。




明治10年2月14日、率兵上京を決意した薩軍は、旧練兵場跡地で部隊編成を行い、

陸路熊本へ向かって進軍した。

蹶起当時の薩軍の編成と指揮官は、以下の通り。



〇一番大隊 大隊長 篠原国幹

〇二番大隊 大隊長 村田新八

〇三番大隊 大隊長 永山弥一郎

〇四番大隊 大隊長 桐野利秋

〇五番大隊 大隊長 池上四郎

〇六番・七番連合大隊 大隊長 別府晋介



一番大隊を率いる篠原は戊辰戦争において戦功をあげた陸軍少将で退職時は近衛局長官。

明治帝は篠原の退職を翻意させるべく自ら勅諭を発し、また侍従を派遣してまで慰留に努めた

とされている。

二番大隊長の村田は幕末期からの西郷の後輩であり、おなじ誠忠組の同志でもあった。

戊辰戦争従軍後は軍人の道は歩まずに文官となり、岩倉具視の使節団に加わって欧米を

視察した経験をもつ知性派であり、勝海舟からは「大久保利通に次ぐ人材」と高い評価を

受けた人物だったが、複雑な思いを抱きながら(おそらく、蹶起には消極的だったにちがいない)

の従軍だったろう。ドラマでは軍服ではなくフロックコートを着込み、手風琴(アコーディオン)を

奏でるハイカラな人物として描かれることが多い。

軍の実質的な指揮は、西郷本人ではなく、明治後の彼の一番の側近ともいうべき、

四番大隊長の桐野利秋が担った。郷士身分に生まれた彼は幕末の名を中村半次郎といい、

薩摩示現流の使い手として「人斬り半次郎」の名で怖れられ、その剣の腕一本陸軍少将に

のし上がったといわれる薩摩隼人の典型らしい快男児であった。

六番・七番大隊を指揮した別府は桐野の従弟にあたり、鹿児島・城山における最終戦で

西郷の介錯人を務めることになる彼もまた薩摩示現流の使い手である。

薩軍戦略の重要な部分において誤算となったのは、彼が一時期、熊本鎮台司令長官

の職にあったことにあるかもしれない。

いうまでもないがこの時期、すでに日本の津々浦々に徴兵制が施行され、旧幕時代の身分秩序

に関係なく兵役が課せられるようになっていたが、まだ日は浅い。

長く兵務を担ってきた武士に変わり銃を執って兵士となった多くがそれまで戦争とは無縁の庶民

だった。

桐野たちからすれば、そのような俄か仕立ての兵隊に屈強の薩摩兵児(へこ)が負ける

はずがないという考えが抜きがたくあり、西郷大将が兵を率いてやってくれば戦わずに降参する

と本気思っていた節がある(それは後述する樺山資紀の存在も含めての期待であったろう)。

実際、薩軍を後方援護する鹿児島県庁からは熊本鎮台に宛て、

「政府に尋問の筋之あり」として率兵上京のため熊本城下を通行する西郷大将に対し

「兵隊整列指揮を受けられるべく」という内容を含んだ照会文書を送っている。

実質的な降伏勧告だが、西郷はそれを知ってこれでは挑発になると激怒し、取り消させようと

したという逸話も残っている。

西郷はあくまでも平和裏に熊本城下を通過したかったのだろう。

しかし、当然ながら熊本鎮台側は、政府からの征討令発布を待たず、薩軍の進軍を阻止すべく

籠城して徹底抗戦する決意を固めていた。

熊本鎮台司令長官は先回も述べたとおり、土佐出身の谷干城であり、実は二度目の就任(一度

桐野の後任であった)で、明治9年10月に発生した熊本敬神党による「神風連の乱」の際、

反乱士族の襲撃を受けて斬殺された種田政明少将(薩摩出身)の後任であった。

谷を補佐する参謀長は薩摩出身西郷と同じ下加治屋町に生まれ育った樺山資紀(かばやま 

すけのり。のち陸軍から海軍に転じ、日清戦争時の軍令部長。かの白州次郎の妻して随筆家

として知られる白州正子の祖父にあたる)中佐。

樺山の配下の参謀にはのちの日露戦争において満州軍総参謀長として陸戦全般の作戦指導を

担うことになる長州(徳山藩)出身の児玉源太郎少佐がいた。彼はこのころから陸軍部内

において卓越した才幹知られ、西郷下野後の陸軍を取り仕切った長州閥の重鎮・山縣有朋

から高い評価を受けていた(先の「神風連の乱」の際、山縣が一介の参謀少佐に過ぎない

児玉安否をわざわざ確認する電報を打ったという伝説的逸話があるほどである)。

同郷人たちから裏切りを期待された樺山は、さきほどの薩軍からの照会文書に対し

「国法の断じて許容せぬ所」、「如何に西郷大将であっても、非職の一私人が、大兵を引率して、

鎮台下を通過することは、断じてなり申さぬ」と拒絶している。

近代国家が建設した国軍の士官として、これは当然の態度であろう。

こうした混乱の最中の2月19日昼ごろ、熊本城の大小天守は謎の炎上を遂げ、

今日見ることのできるそれは、昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元されたものである。

この天守炎上の原因は未だはっきりしていない。

単なる失火、薩軍に呼応した鎮台内部の人間による放火、薩軍シンパの熊本士族の犯行等、

様々な説がこれまで唱えられてきているが、橋本昌樹氏は名著『田原坂』の中でそれら様々

な可能性について言及しつつ、児玉源太郎の何らかの関与について含みを持たせている。

つまり、児玉らが企図して焼いたのではないか?ということである(鎮台自焼説)。

戦術的に考えれば、砲撃の標的になる天守の存在(戊辰戦争時の会津・鶴ヶ城を見れば

わかる)は籠城側にとっては邪魔な存在で、薩軍到着前に焼いてしまうという選択肢は

大いにありうる。

また、古来武士の戦い方として、攻め手も守り手も戦闘の邪魔になる城下の家屋を焼き払う

という事例は枚挙に暇がなく、実際、鎮台側は射撃戦を有利に展開すべく城下町に放火し、

おりからの強風にあおられて市街中心部は焦土と化したという(天守炎上と同時刻だった

といわれている)。

あるいは、城内の将兵の覚悟を決めさせるための谷長官の命令ともいう。

だが一方で、清正が築城した熊本城の象徴ともいうべき大小二つの天守を喪うことは城内の

人々にとっても、あるいは銃後の市民にとってもその心理的喪失感はあまりに大きく、

むしろ士気に関わる可能性の方をつい考えてしまうが橋本の『田原坂』にはそれとは異なる

事情が書かれている。

先の「神風連の乱」では、反乱士族の一部が城に放火しているというし、明治初年には

「熊本城破棄取崩し」の意見書を出した藩士もあり、

旧藩主の細川護久も「熊本城廃堕(はいだ)」を上表したのだというから、

熊本城に対する熊本の人々の感覚は、城郭が貴重な文化財・観光資源として愛好の対象と

なっている現代の我々が想像するものとは大きく異なっており、この時代に破却されていった

多くの城郭同様、維持に金がかかるばかりの前時代の邪魔な遺物でしかなかったのだろう。

だが果たして、時期的に空気が乾燥する真冬であり、しかも当日には先に述べたように強い

季節風が吹いていたとの証言もある気象条件の中、天守だけを限定して意図的に焼いて

しまうという芸当が出来たのかどうか。

城内には引火すれば大爆発を起こしかねない弾薬類も多量に貯蔵されていたのである。

実際に児玉少佐指揮のもと(このとき、谷司令長官と樺山参謀長は視察のため城内に不在

だったらしい)、弾薬類の搬出作業が命がけで行われたというし、





同じ城内にある主要建造物の一つである(私が大好きな)宇土櫓はこのように残存したことを

考えても、大小の天守を防衛上の必要性から児玉が敢えて焼いたという説には大いに疑問が

残るように思われる。

弾薬類の喪失だけは免れたが、籠城戦にとって大切な糧秣(食糧と薪炭)を焼いてしまい、

城下での調達を余儀なくされたというから、籠城準備の混乱の中、様々な悪条件や偶然が

重なった上での不慮の失火だったのではなかったかというのが、本件に関する私なりの

見立てである。



熊本城下の川尻に本営を構えた薩軍が熊本城への総攻撃を開始したのが、

明治10年2月22日黎明のことである。

薩軍は城の東側である正面と城の西側である背面の二正面から攻略を開始したが、

さすがは加藤清正が丹精をこめた天下の名城であり、また、薩軍が弱兵と侮った鎮台兵の

猛射によってさしもの薩軍も攻めあぐね、堂々たる城郭の下に虚しく大量の戦死者の山

築くことになる。

熊本城下の寺に埋葬された薩軍戦死者は最終的には1300人近くに及んだというから、

その戦闘の凄まじさは想像に余りある。

石垣や建築物の豪壮さで人気をひく近世城郭の中で実戦を経験した城は実はあまり多くなく、

かの姫路城も実戦を経験していない。

姫路城と並んで人気が高い熊本城はそのうちの数少ない例であり、清正死後260年以上

歳月を経た西南戦争において、その真価が実証されることになったのである。

西南戦争において「西郷は官軍に負けたのではなく加藤清正に負けた」といわれる由縁であり、

熊本城が決して見かけ倒しではない真の名城であることの証左ともなったのである。



開戦劈頭において熊本城の難攻ぶりをようやく悟った薩軍は軍議を開いて方針転換し、

一部兵力を熊本城包囲ために残置し、残りの兵力は北上して続々と南下してくるであろう

政府軍の増援部隊を迎撃するという作戦立てた。

すなわち、五番大隊の池上四郎指揮のもと3000名で熊本城攻囲を継続する一方、

桐野利秋の四番大隊は山鹿(やまが)方面へ、一番大隊の篠原国幹たちは田原坂方面へ進出、

村田新八の二番大隊と別府晋介の六番・七番連合大隊は木留(きとめ)方面へ向かい、

さらに三番大隊の永山弥一郎は海岸線防備を担い、また各隊選抜の200名の精鋭たちによって

西郷隆盛の護衛にあたらせるというものである。

これに先立つ2月19日には征討令が発布され鎮台兵は官軍となり、また西郷自らの出陣が確認

されたことにより、25日に通達された「行在所(あんざいしょ)達第四号」によって、

「徒党ヲ集合シ背乱ノ挙動ニ付」西郷、桐野、篠原らの官位が褫奪(ちだつ)され、彼らはついに

賊将となってしまう(ちなみに、彼らの官位が復されるのは明治22年のことである)。

そしてここに、西南戦争最大の激戦となる「田原坂の戦い」が生起するのだが、それについては

次回改めて触れたい。





ここからは、昨年訪れた際に撮影した熊本城の地震被害の様子を紹介したい。

発災から二か月後の状況であり、撮影しメモリーに記録された順にそのまま掲示する。

一部撮影の不備でお見苦しい点があることをお詫びしたい。


時間的にすでに18時近く、あっという間に夜のとばりが降りてきてしまったが、

入れる場所が限られている中、できるだけ見てやろうと思って歩き回り、夢中で一眼レフカメラ

のシャッターを切った。

加藤神社まで到達し、そこから宇土櫓の姿が間近に見えたときの感激は、言葉には言い表せ

ないものだった。

少年のころからの憧れの存在だった清正の名城・熊本城。

地震によって破壊された痛々しい惨状に、ファインダーを覗く双眸が時に涙で曇ったことを

告白しよう。

余計なことはあまり書かないでおく。

数々の写真が、その時この場所で何が起こったかを雄弁に物語っていよう。




わずかに残った石垣で辛うじて支えられた様子から有名になった飯田丸五階櫓がみえる。



「神風連の乱」首謀者・太田黒伴雄終焉の地。



巨大な空堀。







崩れ落ちた長塀と石垣。何ともいえず、無惨である。



















戌亥(いぬい)櫓。

飯田丸五階櫓同様、石垣の隅の積み石部分だけで辛うじて支えられている。



同・戌亥櫓。




籠城時、谷司令長官夫人を中心に女性たちが避難していたとされる場所。

籠城戦初戦で戦死した将校未亡人の明治末年の回顧談によれば、

2月19日から4月19日まで、堀の中に天幕を張って、その中で不自由な生活をしたいい、

その女性たちの中には、「神風連の乱」で遭難した種田政明愛妾で自らも負傷した小勝(実家に

送った「ダンナハイケナイワタシハテキズ(旦那はいけない。私は手傷)」という電報が当時大変

有名になった)も含まれていたという。



















大天守のUP。無惨に屋根瓦が脱落しているのがよく見て取れる。







宇土櫓のUP。

漆喰壁が剥落し、亀裂が入っている。





宇土櫓の上に満月が浮かぶ。「荒城の月」である。



加藤清正公を祀る加藤神社。

名古屋出身の清正公は、熊本の人々にとっては、まさに神として崇められている。



境内の石垣もこのように崩落していた。



記念撮影ポイントにあったマスコットキャラ「清正くん」。



こうしてみると、実に高い位置に天守が建っていることが分かる。





宇土櫓。

剥落した漆喰壁が直下の石垣まで落下してしまっていた。







宇土櫓は昭和に大修理を受けており、私が小学生の時にお年玉で購入した「探訪日本の城」

(小学館)の写真を見ると、宇土櫓最上階の望楼の欄干に朱がまだ残っていたが、その後30数年

を経て、すっかり褪色していることがわかり、歳月の経過を感じた。

何度見ても思うが、やはり櫓というレベルではない。完全な天守建築である。



崩落した北十八間櫓。



東十八間櫓と石垣の崩落によって、直下の熊本大神宮社殿が圧潰している。



これも有名な坪井川沿いの長塀。大きく破損している。




ご覧のとおり、清正時代から細川時代にかけて整備され今日まで現存する貴重な遺構と、

近年再建された建築物の多くが実に痛々しく破損してしまっている。

最近放送されたNHKスペシャルなどの検証番組を総合すると、古い時代に積まれた石垣

の方が構造的に堅牢で、むしろ技術が発達している筈の後代のもののほうが崩れやすい

のだという。

また一見すると無傷に見える清正時代の石垣も、その内部では裏込石が崩れかかって

いるといい、今後長い年月をかけて修復していく必要があるのだともいう。

城郭は表面的な美しさ、カッコよさだけではなく、このような目に見えない部分にも手を入れ

ていかなければ、貴重な歴史遺産として未来永劫伝えていくことが難しいという真理を如実に

物語っている。要は見た目だけ見繕ってもダメだということである。

城郭愛好者としては、怪しげな名古屋弁を操るどこぞの某市長さんにも、そのあたりの機微を

ちゃんと分かってほしいものだと思うのだが、そうですよね、清正公?


というわけで、翌朝、災害ボランティア参加のため花畑に設営された社協のボランティアセンター

向かう途中で撮影した加藤清正公像。

思わず、手を合わせてしまった。

彼を神と崇めるこのまちと彼の魂がこもっている熊本城は、今後も様々な困難が待ち受ける

だろうが、必ずや力強く蘇ることだろう。






本当は、西南戦争時の絵図や古写真を見ながら、現在は市街地となった付近も含めて

隈なく踏査したかったのだが、今回はそのための時間が取れなかった。


いつの日かの再訪を心に誓って・・・!!




<次回につづく!>


参考文献 橋本昌樹「田原坂 西南役連作」(中公文庫)

       小川原正道「西南戦争 西郷隆盛と日本最大の内戦」(中公新書)

       

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肥・薩・探・訪⑦~西南政争~熊本城攻防 ~熊本地震被害状況

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