ご愛読のみなさま。ご無沙汰をいたしておりました。
業務多忙につき、ブログを書けません。お許しください。
なんとか時間をつくり、やっと40回の原稿ができましたのでアップします。
遠い話ですが、前回(2011年11月9日のブログ)の解答から。
問題:時代劇と言えば「大河ドラマ」。次回50回記念作品は「平清盛」ですが、
清盛が出資して後白河法皇が建てたと言われるお寺はどこでしょう。
正解は、蓮華王院、通称「三十三間堂」です。
三十三間堂(1165年)は、東山七条に位置し、後白河法皇が院政のために建てた御所「法住寺殿」(1161年)に平清盛が出資して建てました。
「法住寺殿」(ほうじゅうじどの)は、元法住寺のあった場所に建てた殿という意味で当時寺ではなく、七条近傍の東山山麓から鴨川までの広大な敷地であったと言われています。
三十三間堂はこの敷地の中央付近に建てられ、一度焼失しましたが、80年後の鎌倉期に再建されました。湛慶(たんけい)作の千手観音坐像(ざぞう)を本尊とし、南北両脇に運慶作を含む500体ずつ、1000体の千手観音立象(りゅうぞう)が並び圧巻です。
ところで、通称名となっている「三十三間堂」の三十三間とは33の間があるという意味で、この間の「三十三」は観音菩薩が三十三の化身を持ち、衆生を救うとされる数と一致し、昔の長さの単位「間」ではありません。
一つの間は約3.6mだそうで、3.6×33で堂の南北の長さは約120mもあり、「ひょっとすると世界一かも」との情報もあります。
この長さを利用して江戸時代(室町から始まったとの説あり)は、盛んに弓の大会「通し矢」が催され、その腕を競っていました。現在でも1月15日前後の日曜日に、「通し矢(大的大会)」が催され、新成人の女子たちが弓を射る光景がニュースで流れます。
さて、今回は「武家政治の起源」です。
武家政治を始めたのは誰か。
今回の大河ドラマ第1回で源頼朝(岡田将生さん)が言った通り、「平清盛」その人です。
平治の乱後、1160年から清盛の政治的立場が大きくなり、最終的には従一位太政大臣となり、実質的に武家政権が始動したと言われています。
一時後醍醐天皇による「建武の新政」がありましたが、1868年徳川幕府の終焉まで、約700年も武家政権は続きます。
その根本を清盛が作ったのです。
清盛の父忠盛は、武力と財力を活かし、当時の武士としては破格な出世を遂げ、昇殿(清涼殿の殿上の間に昇ること)も許されますが、天下に対して号令したわけではなく、天皇・院・公卿などの補佐役にすぎませんでした。
また、ライバルの源氏も低い地位にとどまっており、武力を売っていただけで政治を行っていたわけではありません。
清盛は、母が白河法皇に仕えていたこと、最初の位階が12歳でしかも従五位という破格な待遇(ライバル源義朝は30歳を過ぎてから得た位階)を受けたことから白河法皇のご落胤という説もある(大河ドラマではこの設定)とは言うものの、彼に力量がなければ権謀術数渦巻く平安政界で、太政大臣にまで出世はできなかったのではないでしょうか。
ところで、日本の四姓はよく知られるとおり、「源平藤橘」であります。
この姓は、歴史的にみればすべて「天皇家から派生した家である」というとか、そう信じられていた家柄であります。
歴史を知っている方なら「おいおい、ちょっと待て。藤原はちがうだろぉ!」とおっしゃるでしょうが、藤原家の祖といえる不比等は「天智天皇のご落胤」であると室町当時は信じられていたと言われています。
こんなことで、武士が権威づけのために、好んでこの四姓の子孫だと名乗っており、戦国時代末期から江戸時代初期には系図の売買が横行し、江戸期において本当に正しい家柄とされた大名・旗本はさほど多くありません。
いつも最後に問題を載せていましたが、次いつ書けるかわかりませんので、今回はありません。悪しからず、ご了承ください。
文責:株式会社 いかがく 宮地 登三
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のですが







