社会福祉法人 幡多福祉会 幡多希望の家 (旧重症心身障害児(者)施設) 

高知県宿毛市にある『社会福祉法人 幡多福祉会 幡多希望の家 (旧重症心身障害児(者)施設) 』のブログ

投稿時間 : 06時29分33秒

カテゴリー : 施設長の思うまま記

ジャンル : 医療コラム

2019/6/18

施設長 山本洋

  おーいで,皆さん聞いとくれ、と言う歌詞で始まる歌を知っている人は少なくなったでしょうね。こんな言葉ででも始めないとまじめに話すと、「そんな馬鹿な」と笑われそうな話です。

 時は8年ほど前に遡る。私は当時55歳。以前からであったが実際の年より若く見られることがよくあった。別にうれしいことではない。医師として働くには貫禄がないと思われるし、あまりに実際の年齢より若く言われると、子供扱いして馬鹿にしているのではないかと思ってあまりいい気分ではない。

 以前からの知り合いで、ある人に言わせると他に例のないほどの毒舌家の77歳の男性に、30台半ばに見えるといわれ憤慨した。確かに私の顔の造作は若く、更にはいつも着ている服のせいで、輪を掛けて若く見られるようである。

 しかし55歳になって色々な経験を経て、人生も半ばをかなり過ぎて、今後の残りの人生をいかに生くべきかを常に考えながら、残りの人生、それが今日までか、一ヶ月先か、一年も残っているのか、ひょっとしたら十年も二十年も残っているのか、それは誰も知りえないが、残りの期間を出来るだけ心身ともに健康で医療者として社会に貢献して行きたいと願っている医師である。(大嘘ですよ、ホラ話です。そんなに真面目に考えてなんかいる分けないじゃないですか、こんなことを書くと恥ずかしくて姿を消したくなりますね。)。

 そんな私が35歳位に見えるといわれて、少しは実年齢に近く見られるような対策を講ずるべく、件の毒舌家氏に、あごひげを伸ばすのはどうだろうと、相談したところそれはいいのではないかと言われてその気になった。しかしそのやり取りを聞いていたこの毒舌家の好敵手であるこちらも人後に落ちない毒舌家の女性、家族の一人のように何でも相談に乗ってくれる人は大反対、髭などは不必要と断固反対する。それなら付け髭はどうか、付け髭なら取り外し自由だし、何か一種の変身願望を刺激されるようで楽しい。私は調子に乗って鬘はどうか、とその場は大いに盛り上がったのである。

 さて翌日、ここからがある夏の終わりの白昼夢。

 私は当時体調を崩して毒舌家の彼女の家に居候していた。その女性の家の御主人、生まれはドイツ。現在はアメリカ国籍ではあるが日本での生活が長くなって、日常生活の日本語には不自由しないレベルになっている。

 その日私は調べ物があって岡山市内の図書館に行くつもりで家をでた。朝9時過ぎ、彼の家から15分ほど歩いたところにJRの駅があって、彼は散歩がてら、駅まで送ってくれた。電車の到着までに時間が有り、プラットホームに出て、二人で下手な日本語と下手な英語で話をしていた時に、同じ電車に乗って岡山方面へ行こうとしていた女性がホームに出てきた。年の頃なら60歳前半、上品な奥様風である。

 その彼女が我々に話しかけてきた。ドイツ人の彼に日本語がお上手ですねが最初の呼びかけである。私は、彼女に彼は採れたところはどこのドイツで、アメリカが長く、もう日本も10年以上ですから、日本語は達者ですよと紹介した。少し話していたら岡山市行きの電車が来て女性は電車に乗り込んだ。私は電車が来る前に携帯電話に仕事の話しが来てしゃべり、出発間際に慌てて電車に乗り込んだ。彼女は自分の隣の席を空けて待っていた。

 立っている人はほとんどいなかったが、座席は7割がた埋まっていた。電車の進行方向に平行に座席があり、彼女の隣に座った。12分ほど揺られたら岡山駅に着く。私は電車の窓からの風景が懐かしく何度も後ろへ振り返っていた。その様子を見ていた隣に座っていた先ほどの女性がまた話しかけてきて、

「珍しいですか」と問われた。

 私は「高校生の時にたまにこの電車を利用したことがあるので懐かしいのです。」と答えた。そうすると、「お幾つですか」と問うて来て更に「35歳ぐらい?」と尋ねてきた。

 私はのけぞってしまった。更に更に、彼女はあろう事か私のほうに顔を向けたまま、「あなたの唇は可愛いね、キスしたくなるようね!?。」と言うではないか。私は聞き間違えたかと思ったがそうではなかった。私は凍り付いてしまった。

 すると彼女は「話をしていると唇がもっと可愛いね、ほんとにキスしたくなるね!。」と宣うではないか。

 こちらはもう冷静ではいられなかったが、その時武蔵は少しも慌てずで、講談の世界ではないけれど、そこはそれ、こちらは百戦錬磨の医師、ホスピスでも2年間勤務している。心の動揺は少しも見せず、柔らかい微笑の表情、医師としてのプロが作る業務上の最高の笑顔を作って、もしここで私の唇の操が奪われるような行動に対しては、すぐさま避けられるように心と身体の準備をして、唇の話題ははずしながら、話を聴くことにした。何と興味深い体験、そして医師の目から見て何かしら病的な徴候はないかと観察を開始した。

 彼女はキリスト教会に通っていること、そこに西洋人の神父さんがいて英語を話すこともあり、少しは英語の勉強もしていたこともあって英語で話しかけられても対応できること。彼女の伴侶は10以上年前に亡くなっていて、50歳過ぎであったこと、伴侶とは二つ違いだったこと、猛烈な会社員であったこと、息子は二人いるが、二人とも岡山を離れているので、今は一人暮らしをしていることなどを話した。

 しばらくして「私はいくつに見えるか」と尋ねてきた。

 私は先ほど伺ったことから考えると60歳を少し過ぎた頃ですかと答えているうちに電車の終着駅の岡山駅に着いた。二人でプラットホームに降り立って、私は二階の中央出口に行きますからと話すと彼女も、私もそうですとまた一緒に歩いた。それから私は、岡山で勉強して医師になって今は高知県の田舎の診療所に勤めていること、両親は岡山で健在でいることを話した。彼女は、私が医師であると告げたとたんに顔つきが変わり、大変失礼しましたと謝罪の言葉を残して、二階の出口でそそくさと左右に別れた。

 私は彼女が気になった、そこで立ち止まって彼女の姿を追ってみた。すると彼女は改札口を出て右へすぐに歩いていった、西口方向である。しかし20mも行くと突然くるりときびすを返して、今度は私の方へ歩いてきた。私は少し離れていたので、彼女は気がつかなかったのか、気がついても気がつかないふりをしたのか、全く知らない顔をして反対方向の東出口方面に歩いていって姿を消した。その姿を見ながら、さっきの出来事は一体なんだったんだろうかと、繰り返し反芻しながら、彼女は寂しく、精神を病んでいるのだと思った。

 それからわれに返って、昨日毒舌家氏に言われたように絶対髭を生やす、ちょび髭しか生えなければ止めて、付け髭でも鬘でもつけて、年齢相応に少しでも外見を変えてやる。毒舌家氏は時代劇大好き人間で奈良県西大寺在住だから、時代劇の撮影をするための小道具を手に入れることは朝飯前だと思う。彼に頼んで付け髭、鬘を手に入れてやる。

 二度と一回り近い女性にナンパされる様な事は絶対に拒否、断固として拒否する、相手もそんな気持ちが夢にも起こらないようにしてやると心に誓っていたのである。

 夕方居候宅に帰ってこの話をしたら、皆に腹を抱えて大笑いをされた。そして私は奈良県在住の毒舌家氏に髭の購入の依頼をして、身も心も変身することを心に決めたのである。

 そう言えば、30年以上前にこの夫婦がニューヨークに住んでいたときに、私は大学の夏休みを利用して二ヶ月の間居候した。その時も妙に、彼らのアメリカ人の男性の友人に気に入られて、このままアメリカに住んだらどうだ、医者になりたいなら此方で医大に行かせてやると言われて、彼にこんな事を言われたとこの夫婦に話したら、その時も大笑いされて、洋、気をつけろ、彼は大金持ちだけどね、危ないよ。

 当時は22歳であったが、16.7歳の可愛らしいアジアの男の子と思われていたらしい。笑われてやっと気がついた。この夫婦とは何でこんな事に縁があるのだろうと思わずにはいられなかったのである。

 男子三日会わざれば、かつ目して遇すべし、とは古来の中国の諺である。人として日々成長しているとはおこがましくて申せませんが、その時は病気療養中、復職した時には付け髭、鬘を身につけて別人の顔で仕事をしている自分を想像して、一人でにやつきながら大変な一日を振り返りながらその日は眠りに着いたのである。

 さー今は御年数えて62歳、8月がくれば63歳。三回の手術を受けて抗癌剤を内服中。鏡なんかほとんど見たことはない。一体今自分は何歳に見えるのだろうか?同じ姿勢でいると腰が痛くなって立ち上がると腰が曲がっていることがある。自分で年齢を感じる時である。あーあ。


投稿時間 : 06時07分53秒

カテゴリー : 施設長の思うまま記

ジャンル : 指定なし

2019/6/16

施設長 山本洋

私の故郷は岡山県の東部にある備前市。

 備前焼で有名な町のはずれにある三石地区で生まれた。中学校までは三石町だったが、中学の時備前町と合併して備前市になった。三石は保育園、幼稚園、小学校 中学校は一つしかなく保育園から中学卒業まで同級生の顔ぶれは変わらない。11年間同じ友達と学校に通った。

 その友達の中にM氏がいる、今でも時々会うが彼は名古屋で建築事務所を主宰している。別に小学校2年の時だったか私の近所に双子の兄弟が隣町から引っ越してきた。隣町ではかなり有名な乱暴者だったが、なぜか私は早くに友達になった。名字はM氏と同じ。双子の兄稔は名古屋のM氏と同姓同名しかも高校は同じ岡山市内の工業高校、弟は誠、彼も岡山市内の別の工業高校に通った。

 市内の別の工業高校に同じ顔をした二人がいたから高校時代は色々面白いことがあったようだ。双子の兄弟とは中学校から一緒に卓球部で汗を流して、県大会まで行った。高校からは進路は変わって、なかなか合う機会は少なくなった。誠は高校を卒業して、大きな橋の設計事務所に入ったが兄は大学に行きたいと働きながら浪人していた。

 しかしいつの間にか二人とも仕事を辞めて、天理教の一派のある宗教団体に所属してそこで修養生活に入っていると名古屋のM氏から連絡が入った。二人して、兄弟を説得して脱会させようと意気込んで大阪市の南にある宗教本部に会いにいった。

 弟は奈良県の山奥で本部の建物建設に使う木材の伐採の仕事に行っているとの事で会えなかった。兄のM氏にはあったが、まったく我々の話には耳を貸さず逆に本部へのお参りをして行けと言う。結局説得はまったく出来ずに帰る事になってしまった。聞けば御両親も信者であったらしい。それからはたまに名古屋のM氏から、風の噂が入る程度で合う機会はなかった。

 ところが突然平成24年2月20日双子のM氏稔からメールが入っていた。

22日にそれに気がついて見ると、現在山口の宗教施設で勤めているが、最近医師から、B型肝炎、肝臓癌の末期と診断された、それで相談したいことがあると言う。その頃私は退職に伴う騒動の中で胃痛の為食事が出来なくなって15日胃内視鏡検査を受けて、その画像から胃癌を強く疑っていた。3月末での退職に向けての予定を調節する必要がありばたばたしていたが、これは最優先事項。

 名古屋のM氏に連絡して急遽23日岡山へ行き翌日岡山駅で落ち合い二人して山口に向かった。新幹線小郡駅には本人が迎えに来てくれていた。顔色はどす黒く痩せて、腹部は膨らんでいた。かなり悪そうだと思えた。まずはやはり宗教施設へのお参り、その後彼の母親が世話になっているデイサービスの施設へ。母親は昨年の末に誤嚥性肺炎を併発して現在経鼻チューブが挿入されている。言葉はでない、よく知っているはずの私にもまったく反応がない。認知症がかなり進行している。そして彼の自宅へ行く。彼は疲れて横になってしまった。独身で二間の家、昔の話だが結婚は信仰している教祖様が相手を決めてくれると話していたが結婚はしなかったと言う。弟の誠の話を聞くと、誠は35歳位で血を吐いて死んだという。当時大阪にいたが、具合が悪くなっても医者には行かずで、その夜、誠は兄に心細いから横に寝ていて欲しいと言った。その夜隣の部屋で寝ていたら、誠は夜中に大量の血を吐いてそのまま死んでしまったらしい。平成になってすぐのことと言う。今思えばB型肝炎から肝硬変になって、食道静脈瘤の破裂による吐血と推測された。

 稔氏は、「出来れば母親を後一年は診たい」と話す。私は「何を馬鹿なことを言っているか」と言う。

「主治医からホスピスへの入院の話しが出ると言うことは、お前の残された時間は長くて半年、短ければ3ヶ月しかないよ」と主治医からの文書を診ながら説明する。

「このままでは母親より息子のほうが先に逝くよ、お母さんはまだ話が出来ている時、食べられなくなった時にはチューブを入れて長く生きたいと話していたか、それとも食べられなくなったらそれで終わり、チューブは嫌と話していたか」と尋ねる。

「母親はチューブは要らないと言っていたが、緊急で入院した病院で入れられていた」と言う。

「それなら今後のことを良く考えろ」と話して帰路に着いた。帰りは宗教施設の職員が小郡駅まで送ってくれた。彼にくれぐれもM氏と母親のことをよろしく頼むお願いして山口を離れた。

 大正に帰ってからも忙しい。15年勤めた診療所を辞めるにあたっては色々と雑用がある。あいさつ回りも大変。28日お世話になっていた前町長の息子さんの死に立ち会う。翌日29日普通なら一週間で結果がでるはずが2週間経ってやっと生検の結果がでた。予想通りクラスⅤ、胃癌に間違いはなかった。それから自分で諸検査をしてみるが、特に転移はなし。しかし胃X-Pはかなりいびつ、ひょっとして進行癌?考えても仕方がない。急遽中村への引越しをカヌー仲間に依頼して3月3日4日に手伝って貰う。まだまだ荷物が多くてそれでは終わらない。。

 5日高知医療センターを受診して早速胃内視鏡検査、結果はスキルス性の進行癌ではないでしょうとの診断。そのまま外科へ紹介されて、手術の予定は今日の生検の結果で決めましょうとの話し。朝九時前から夕方5時過ぎ疲れたなーと思う。

 胃癌で亡くなった解剖学者の細川宏先生は詩集「病者*花」の冒頭の詩「病者」の初めに「Patients must be patient 病者とは耐え忍ぶ者の謂である」と記されている。高々外来で一日待っただけの自分はこの詩を思い出していたが、それから起こってくる3度の手術、その結果付随してくる合併症に耐え忍んでいくことになるとはその時はまったく予想も出来なかった。

9日は公式には最後の勤務、その後送別会、盛り上がらないこと著しい。

12日外科再診 やはり胃癌、3月28日手術予定、前日入院、手術は場合によっては胃全摘出術になるかも知れないとの話。。それまでにもう一度胃内視鏡検査。そして手術までに大腸内視鏡検査をするように指示された。

15日まだ今日も大正診療所で胃内視鏡検査を3人に行う。特に異常はなし、良かった。この日大正町に赴任する前から大変世話になっていた前町長を診療所で看取った。息子さんが亡くなって2週間。がっくりと気落ちされていたが、本当に自分の最後の最後の診療所での仕事になった。それから正式な引越し、片付け、あいさつ回りで気が休まる時がない。26日には医療センターで大腸内視鏡検査を受ける。なかなか便がでてしまわない。腸洗浄液を追加追加で服用する。朝8時に医療センターに行って検査が終了したのが午後6時。

 大腸検査の前処置中に山口から電話があり、昨日M氏の母親が亡くなったと本人から連絡があった。経鼻チューブを抜いて10日間その間喜んで口から食事をしていたが急に高熱が出て、呼吸状態が悪化して最後は眠るように亡くなったとのこと。「世話になった」とお礼の言葉を貰った。

27日午後1時に高知医療センターに入院、手続きをして病室へ。28日朝6時に目が覚めたが良く眠れた。午後1時に手術へ入室。点滴のラインをとって、麻酔科医師による硬膜外チューブの挿入。赤穂市民病院時代にはたくさんの患者さんにしてきたことを今時分が受けることになろうとはの思いがあるが不思議に不安はない。続いて麻酔の導入。白い液体のディプリバンが体内に入っていく。眠った。次に気がつくと手術は終了していて、気管内チューブもない。午後4時半には自分の部屋へ帰る。

術後は順調、翌日には廊下を一周する。硬膜外チューブから注入されているオピオイドが効いているためか痛みはほとんどない。しかしオピオイドの副作用か皮膚のかゆみがある。硬膜外麻酔はして欲しいがかゆみも辛い。なんとも、痛し痒しとはこのことかと苦笑する。とは言え順調に回復して6日には医療センターを退院して四万十市民病院に転院させていただいて更にしばらく療養、16日に医療センター外科受診、病理検査の結果を聞く。胃癌は早期癌でリンパ節転移はなし、術後の化学療法は不要との事。20日に退院して自宅へ帰った。

今回の胃癌は大正町の住民の方々に見つけてもらったようなもの。外来で患者さんが泣いてくださらなかったら、私は胃潰瘍になっておらず、胃内視鏡検査を受けることもなかったはず。そうすれば何年か後に進行胃癌が見つかってそのまま手の打ちようがなく終わっていたかも知れない。大正の住民の方々に感謝の気持ちしかない。そのことを4月末の高知新聞のコラム「所感雑感」に書かせていただいた。

5月16日山口のM氏が亡くなったと宗教施設の職員の方から連絡が会った。

自宅で最後息を引き取ったよう。その前に本人から母親の葬儀の時の写真が送られてきていた。同封された手紙にはありがとうの言葉があった。母親を自分が看取ることが出来て何よりだったと書いてあった。行年57歳

7年前の2月から5月までの出来事は今でも走馬灯のように鮮やかに思い出すことが出来る。自分の始めての手術、本当に世話になった前町長の息子さんと町長本人を看取ったこと、山口の友人の親子の最後の時に少しでも役に立っていたかとの思い、人生色々なことが起こってくるが、これも御縁の賜物かと思うことしきりである。

投稿時間 : 13時35分20秒

カテゴリー : 施設長の思うまま記

ジャンル : 医療コラム

2019/6/1

施設長 山本洋

猫が帰ってきた!。

4月30日引越しの時、妻の車から逃げ出して、行方が分からなくなっていた我が家の猫が見つかった。先週名古屋に学会で出張しているときに、妻は猫が車から飛び出して居なくなったところへ何度目か足を運んでいた。

いなくなっていた近くには猫好きで、えさを与えたり、避妊手術に連れて行ったりしている方がおられて、そこの家にどうやら我が家の飼い猫のクーが餌を食べに来ているようだと連絡をいただいていた。私も探しに行ってみたがなかなか見つからない。餌を食べに来る時間に合わせて何度か妻が行っていると、、先週の木曜日の夕方餌を食べに出てきていたクーを見つけて声を掛けると、よほど寂しい思いをしていたのか、ぎゃーぎゃーと鳴きながら近寄ってきて甘えること仕切りであったよう。

3週間ぶりに帰ってきたクーはその晩は一晩中甘えていたようだ。日曜日に私が出張から帰って、次の日妻は所要があって南国市に出かけたがその留守の間も私に甘えること。痩せた私のお腹の上に乗って離れようとしない。久し振りに、人間二人と、犬一匹、猫一匹が揃った我が家は、賑やかになった。

ちょうど高知新聞に「助けてわんにゃん」高知の動物愛護を追うの記事が連載されていた。それを読んでいると高知の野良犬、野良猫の置かれた状況がいかにひどいものかと知らされた。それを思うとよくクーが見つかったものだと思う。記事にもあるが、課題はたくさんあっても少しでも処分される犬や猫が少なくなるように出来ることは少しずつでも進めていかなければならないと思う。

我が家には何匹も野良猫や野良犬、飼えなくなった訪問先の患者さんの所から来た犬などが同居してきた。世話をするのは妻なので、私はそのことに関しては肩身が狭いのであるが、やはりペットは可愛い。少しでも長生きをしてくれたらと思う。

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